「見てる人は見てるからね」


大学4年の冬、バレンタインまでの1ヶ月くらい、某チョコレート会社の短期の販売バイトをした。

大学4年の1年間というのは、まだ若かった私にとっては結構激動の日々で、失恋し、就活もうまくいかず、友達と好きな音楽に支えられながら何とか過ごしていたけど、それでも内定が出るまではずっと泥の中を這うような気持ちの中にいた気がする。

最終的に内定が出たのは秋。
それから卒論を何とか仕上げて提出し、年が明けたくらいからようやく気持ちが軽くなってきて、卒業旅行の資金作りのために応募したのがそのバイトだった。


当時の私は「働くこと」に対して全く自信が持てないでいた。
それまでにもいくつかアルバイトは経験していたけど、いつも手際が悪くどんくさかったし、その上就活でも落とされまくったので、「やっぱりな」という感じで自信のなさの上に自信のなさがどんどん上塗りされ、がっつりとコーティングされてしまっているような状態だった。

それでももうすぐ社会人になって普通に働かなくてはいけない。
そこから逃げることはできないのだ。


だからこれは社会人になる前の訓練なのだと、その時の私はちょっとした短期バイトに対しても、悲壮感すら漂うほど、かなりの決死の覚悟で臨んでいた。

人に迷惑をかけることがこわくて不安だった。
自分は人よりもできない人間なんだから、その分人よりも頑張らなくてはいけないんだ。
自分は油断すると絶対ミスをする人間なんだから、寸分たりとも気は抜けないんだ。
毎回そんな風に自分に言い聞かせながら、バイト先へとむかった。

売場の社員さんは、アルバイトに対してかなり厳しい人だった。
機嫌が悪くなるとそれが態度にはっきりと出るので、売り場にはいつも緊張感があり、きっと自分のようなタイプは真っ先に目をつけられるだろうと私は怯え、そのことが私の覚悟により一層拍車をかけた。

その結果何とか大きなミスもせずこなすことはできていたけれど、すごく気が利いてよく動く人というのがどんな職場にもいるもので、そういう人に比べれば自分の動きは鈍いし、そんな風には決してなれないと思った。
だからせめて自分ができることとして、人が面倒に思うような小さくて些細なことも、率先して一生懸命やろうとは心がけていた気がする。


そうしてバイト期間も中盤を過ぎた頃には、最初は厳しくて怖かった社員さんの表情や言葉遣いが、少しずつやわらかくなっていくのを感じていた。
いつの間にか名前の呼び方も、さん付けがちゃん付けになったりする時があって、しかもそれは全員じゃなく私を含む一部の人に対してのみだったりして、これはどういう加減なんだろうな?と不思議に思ったりした。
(私はいつから人をアダ名で呼べばいいのか、そのタイミングがわからずに結構ずっとさん付けで通してしまったり、そういうのに結構逡巡してしまうタイプだったので…。)


ある日何かの用事で、徒歩5分くらいの事務所までその社員さんと一緒に行くことがあった。
バレンタインはもう1週間後くらいに迫っていて、売り場も賑わっていたし、終わりが見えてきて、社員さんも大分肩の荷が降りてきた頃だったんだと思う。

厳しかった社員さんが、スキップなんてしながら、「帰りにKALDIに寄ってコーヒーを飲んで帰ろう♪」なんて言うのである。
当時の私はKALDIをちゃんと認識していなかったので、え、バイト中なのにコーヒーショップに寄るの?それいいの?と、結構動揺したのを覚えている。
なんてことはない、店先でよく配っているコーヒーの試飲をもらうだけであった。

私バカだなー、なんてコーヒーを飲みながら心の中でひとりごちていたら、ふと、社員さんが言ったのだった。


「ありがとうねー。
 見てる人は見てるからね。
 ちゃんとやってくれてる人のことは。」


…え?


私、今ほめられたんだ。
そう気づくまで、少し時間がかかった。

その途端、試飲の紙コップを片手に鼻歌すら歌い出しそうなくらいるんるんと前を歩く社員さんの背中を見ながら、色んな思いがこみあげて、何だか涙が出そうになった。
この言葉ひとつで、この1年くらいの自分の辛い思いが全部、報われたような気持ちになったのだ。


「見てる人は見てるからね。」


その言葉は、それからずっと私の心を支えてくれているように思う。


うまく伝わらない、伝えられないことってある。
就職活動だってそうだった。
それまでそれなりに一生懸命生きていたって、その具体的な成果を上手に言葉に、形にして伝えられなければ、それはなかったものと同じようになってしまう。
そんなことはないのだけど、そういう風に感じてしまう。

実際に会社で働き始めてからは、就職する前の「ちゃんと働けないんじゃないか」という心配は杞憂で、接客業のような体を動かす仕事は不得意でも、事務作業はどちらかというと得意で結構さくさくとこなすことが出来て、自信を取り戻せた部分もあった。

でも、自分は努力して仕事を効率化して早めに切り上げているのに、それはただ楽々とこなしているように見られてどんどん仕事をふられたり、単純に「残業している」人が「仕事をしている」と判断されたりする。
縦割りの業務分担で、他の人がやっている仕事の内容なんてみんなあんまりわかっていなくて、それは上司ですらそうで、だから態度や時間で判断されがちなのはしょうがないけど、なんだかなー、と思うことは本当によくあった。

やったことを資料にしたり明文化してきちんとアピールすることも必要なんだろうけど、なかなかそんなスタンドプレイのようなことは勇気がいるし(実際にそういうことをやる人は嫌われていた)、努力のすべてがそんな風に形にできるものというわけでもない。


それでも、そんな風に形にならない努力の過程を、その姿を、「見ている人は、見ている。」

たくさんはいないかもしれないけど、きっと必ずどこかにそういう人はいる。
いてくれるんだ。


それはいつだって私の希望であり、救いであり、うまく伝えられない、わかってもらえないと気持ちがくじけそうになる時は、いつもこの言葉を思い出す。

それだけで、よしもうちょっと頑張るか、と少しだけ前を向くことができるのだ。


今週のお題特別編「嬉しかった言葉」
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