いじめ
いじめのニュースで、自殺した彼の生活日誌のつぶさな記述を見ていると、痛ましくて涙が出てしまう。
昔の自分のことを思い出していた。
小5の時、私はひとりの女の子から、個人的ないじめを受けた。
そうして彼と同じように、担任の先生に提出する日記に、泣きながら自分の気持ちを綴った。
「日誌」ではなく「日記」で、それはただのノートだったから、行数の制限もなく、私は長い長い文章を書くことができた。
汚い字で書き殴った、痛々しくて拙い文章、ものすごく読みづらいであろう文章を、先生はきちんと読んでくれた。
そうしてきちんと私の気持ちを受け止めて、対応をとってくれた。
そんな先生に巡り合うことができた私は、なんて幸運だったんだろう。
今でも忘れない。
感謝してもしきれない。
その先生は小6の時も担任だったのだけど、いじめのことなんてもうすっかり遠のいていたある日、日記に長い長い返事をくれた。
ノートのまるまる1ページが、先生の達筆な赤ペンの文字で埋めつくされていた。
「一度ゆっくりお返事を書こうと思って 十月になろうとしているのにびっくり。
お元気ですか。」
そんな書き出しで始まるその文章は、その日の日記の内容とは関係ない、私にあてた個人的なメッセージで、すこし難しい内容だった。
その時の私はまだ子どもで、その内容をたぶんきちんと理解できていなかったのだけど、今それを読み返すと、驚いてしまう。
「いろいろな物や人を観察していて
知っているものが多い分、知らないこともたくさんあって、
それに対する好奇心がおおせいで、
自分のことは 客観的にみていて、
そのぶん 自分の未知な部分に不安をもっている感じ。
むずかしいですか?」
そこには先生の目から見た当時の「私」が、どんな人間だったかが記されている。
そこに記されている「私」から、今の私はほとんど、変わっていないように思える。
それから20年近くが経っているというのに。
当時の私は、自分がどんな人間かなんて、まだ意識もしていなくて、もちろん言語化もできていなかった。
(大人になってから、嫌というほど、そんなことばかり考えるようになるのだけど。)
そんな「私」のことを、先生は見ていてくれた。
私がわからなかったことを、わかっていてくれたんだ。
この日記は今でもずっと宝物で、たまに開いて読み返すたび、涙が出る。
先生みたいな先生が、たくさんいてくれればいい。
そうして、今辛い思いをしている子どもたちが、少しでも多く救われますように。