地続きの世界(『さくら』感想)
最近、西加奈子さんの『さくら』を読みました。
以前ご本人があさイチに出演された時のお話がとても面白かったので、著作を読んでみたいなとずっと思っていて、ようやく手にとった1冊。
うーん、でも…
正直に言うと私はちょっと苦手でした、この本。
主人公とその家族の描き方があまりにファンタジーで、そんなファンタジーな描写の中に障害や性などの現実的な問題が盛りこまれていて、その描き方のバランスが何だかしっくりこなくて。
その両輪が、もっと均されていれば良かったんですが。(個人の好みです。)
ただ、そのようなファンタジーもリアルも、全部が地続きである、ということこそ西さんがこの小説に描きたかったことだと思うし、それは私にとってもとても大事なテーマなので、読後色々なことを考えさせられました。
以下、ネタバレを含む感想です。
***
主人公の兄は昔からずっと太陽のような存在だった。
頼りがいがあり、格好良くて、誰からも愛された。
けれどもその兄が交通事故にあい、車椅子生活を余儀なくされるほどの障害を負ってから、本人と家族を取り巻く状況が一変してしまう。
そこからどう家族が再生するのか。
そんな筋書きの物語です。
兄が事故後、自分のことを、幼い頃に出会った「フェラーリ」というあだ名の男(おそらく何かしらの障害がある)になぞらえて語る場面が個人的にはこの物語のハイライトで、読んでいて涙が出ました。
「ふ、フェラーリ、おぼ、覚えてるか?」
兄ちゃんは、真っ黒い小石の目で、どこを見るでも無くそう言った。
(中略)
「お、俺ま、まさか、自分が、フェラーリみたい、に、小さい子ぉに、指差されて、さ、逃げられるように、な、なるなんか、思わんかった。」
僕らはフェラーリがいると、いつだってどきどきした。何か恐ろしいことが僕らを待ってるような、踏み入れてはならない世界があるような、そんな気がした。
フェラーリが「フェラーリ」という存在で、僕や兄ちゃんや、学校の友達と同じ世界にいるなんて思わなかった。
でも、そのときの兄ちゃんは、まさにフェラーリと同じ世界にいた。フェラーリがどっぷりと浸かって決して出てこなかった、あの世界にいた。怖くて空を見ることも出来ない、自分の俊足をもてあましている、あのフェラーリと。
兄ちゃんを見て「ぎくり」としたあの目、兄ちゃんを見て逃げる小さな男の子たち。その男の子たちは、小さな頃の僕だったし、兄ちゃんだった。木の上からフェラーリを指差して笑っていた、あの兄ちゃんだった。
自分とは違うからと安心して高みから見下ろすこと。「指差して」笑うこと。
その、悪気のない残酷さ。
でも、人生は何が起こるかわからなくて、誰もが常に「フェラーリと同じ世界」に行く可能性があるんだということ。
そんなことが、痛いほど表現されている場面だと思います。
これは本の話、架空の物語の話だけど、現実の障害やいじめの問題について考える時、同じことにいつも思い当たります。
対岸ではなく、それは自分と地続きの世界の話なんだということ。
そんな想像力を働かせることが大事なんだ。
今週のお題「最近おもしろかった本」がきっかけでそんなことを考えていたら、いつも読ませていただいている「スズコ、考える。」というブログでも偶然、近い内容について書かれていてびっくりしました(切り口が違いすぎておこがましいので言及はしませんが…)。
今書いたような「想像力を働かせる」とは具体的にどういうことなのかが深く考察されていて、指針になるような文章でした。
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