熱狂的なファンとかではなかったのにどうしてこんなにも


 相変わらずSMAPのニュースに釘付けの日々である。暇さえあればYAHOOを開き、新しい情報を探してしまう。その内容がどう見てもジャニーズ寄りというか、「造反組には◯◯のような姿勢が求められる。」みたいな書き方だったりすると、お前誰だよ、と思う。

 月曜日のスマスマの生放送は衝撃的だった。冒頭の、世界にひとつだけの花をバックに、視聴者からのメッセージが紹介される部分の茶番っぷり。その後の5人並んだ姿の、キムタクセンターの違和感。それ以外の4人の強張った表情、言わされている感。かわいそうで涙が出た。後になってネットにあがっていた動画を見直したら、より心にくるものがあった。吾郎ちゃんは比較的落ち着いていたように思えたけど、慎吾ちゃんの目元のくまやコメント中の沈黙や、中居くんのしきりに握り直している手元やあのため息や、最後にいちばん嫌な台詞を言うことになったつよぽんの、全くカメラを見ていないうつろな目。なんて絶望的な光景だろう。

 SMAP解散!?という報道が出てから、前回のブログにもちらっと書いたけど、自分の中に既に当たり前みたいに内面化されていたSMAPの存在の大きさに驚いている。もちろん、嫌いじゃなかった。どちらかというと好きだったし、その中では中居くんが好きで、中居くんの番組はテレビをつけるとよくやっているので見る機会も多かった。でもスマスマはたまに見る程度。SMAPのコンサートなら一度は行ってみたいね、とたまに夫と話していたけど、CDはその昔夜空ノムコウを買ったくらい。申し訳ないけど、その程度だったのだ。(こんなブログを書くのもおこがましいくらいなのですが。でもブログは自分用の日記だと思ってるので、強く気持ちが動いた出来事を記しておきたくて。)

 でも、報道後は、上記の通りニュースに釘付けである。夫も同様の状態で、先週のミュージックステーションのラブソング特集みたいなので5人が歌ってる映像が流れただけで涙してしまうほどの重症っぷりである。なんだろうね、やっぱり、バラエティで活躍してるSMAP、っていうより、SMAPの音楽が好きなんだと思った。今までの自分の人生の中で当たり前みたいに流れていて、口ずさまれていた音楽。それが5人揃って歌われる光景が見られなくなると思うと、ほんとうに寂しくて、解散してほしくない、とつよく思った。

 でも。スマスマを見たら、もういいよ、そんな風に辛い思いをしてまで5人でいなくてもいいよ、ごめんなさい。という気持ちにまでなってしまった。

 翌日(昨日)の朝も、電車の中でYAHOOをチェックして、昨晩のことを思い出して辛い気持ちになりながらパート先の会社に向かった。その日の午前中は忙しくて、息つく暇もないような感じで、その間は頭の中からSMAPのことはすっかりと消え去った。昼休みになって、「朝はSMAPのことで頭がいっぱいだったけど、忙しくしてたらすっかり消え去りました。」と、何気なく隣の席の人に話したら、爆笑されてしまう。ええええ。「そんなファンだったの?」「いや、そんなでもなかったんですけど…」答えながら、しどろもどろになる。「私見てないの。どんな感じだった?」ほかの人に聞かれ、「みんな表情が暗くて、言わされてる感すごくて、公開処刑って感じで、すごく悲しくなりました…」答えると、また別の人が、「いやいや、そこまでじゃないでしょ。とりあえず存続するんだから、良かったじゃない。」と。えええええ。世間ではそんなライトな感じなの〜。私の観測範囲(ネット)では、絶望している人が多数だったのに…。そんで、なんか知らないけど、「◯◯さん(私)って、繊細なんだね。」「優しいんだね。」みたいな感じで話は締めくくられてしまった。そんな〜。

 軽くショックを受けたけれど、仕事が終わればまた、SMAPのことばかり考えてしまう。

 思い出したのは、笑っていいともが終わった時のことで、あの時も、普段いいともをほとんど見ていなかったくせに(まあ仕事してた時は普通に見られなかったんだけど)、それで結局視聴率が悪くなったから打ち切りになったようなものなのに、急にみんなが「タモロス」とか言い出して、自分も含めて、勝手だなーと思ったものだ。それでも最後の1ヶ月くらいは、ぜんぶビデオに録画して見た。

 それで、最終回の、タモさんへのメッセージとして、レギュラーだったSMAPの3人が語ったことが話題になりましたよね。あの時の言葉は、ほんとうにメンバーの心からの言葉だったんじゃないかと思う。だから胸を打たれたわけで。今回のスマスマの生放送が決まった時、「メンバーが自分の言葉で語ることが大切だから」みたいに記事に書かれていたと思うけど、実際は、全然自分の言葉じゃなかった。全然心がこもっていなかった。この間、心がこもっていない言葉はわかる - あの日からのつづきというブログを書いたけれど、あんなにもありありとそれがわかるなんてね。(その分、身体が雄弁に本音を伝えていた気がする。)それをテレビであんな風に放送するなんてね。

 で、タモさんの引き際って、なんだかんだ、理想的だったのではないか。ずるずると続けるよりも。大団円で終わって、その後のヨルタモリも、すきっと終わらせて。でもそれって、なかなか難しいことなんだろうなあ。まあ、SMAPはスマスマの視聴率が下がったとかではないし、事務所との問題だから、事情は全然違うのだけど…。

 こんなことを書くのはよくない、ファンの方々には申し訳ないのだけど、もしも、終わりの時がやってくるなら。もう引き止めたりせずに、いいとも最終回みたいなハッピーな感じで送り出してほしい。もうあんな顔は見たくない。と、心から思う。

 何だかだらだらと脈絡なく書いてしまい、着地点がよくわからなくなってしまったのだけど、そんな感じです。

当たり前は当たり前じゃないの


 当たり前のことって、当たり前じゃなかったんだな。なんて感じる。ベッキーのことも、SMAPのことも、当たり前みたいにテレビに出ている人たちで、好きとか嫌いとかそういう域を超えて、もはやそれが日常になっていたけど、今回みたいなきっかけで、ふいにテレビから消えてしまう時が来るのかもしれない。

 正直に言えば、いつも変わらない顔ぶれに、少し飽きてもいた(それが消えてしまうかもしれないと思うと、急に悲しくなるのだから、ずいぶん勝手だ)。いち視聴者の私がそうなのだから、きっと本人たちはもっとそうだったのではないか。飽きるというか、打開したいというか。そういう気持ちの歪みみたいなものが、あっ、と思った隙に、どんどん大きくなってしまったのかもしれない。

 なんて、遠い世界の出来事を、近くにいる人のことみたいに心配してしまう日々。やっぱり、それくらい、当たり前で、身近に感じられる存在だったということだよね。

 なんか最近、関心があることと言ったら、そんなテレビの中のことばかりで、それもちょっとどうなのと思った。

 積み重ねてゆく日常の姿も、はっきりと像を結ばない。うすぼんやりとした日々だ。

 何をしたいのか、どうなりたいのか。色んな気持ちがあって、それでいいじゃんと思っていたけど、今の自分には焦点化が必要な気がした。

今年の目標


 最近のマイブームは、何かにつけてコウノドリ(ドラマ)の分娩のシーンの綾野剛の「赤ちゃん出るよー!」的な感じで叫ぶことで、この言葉の汎用性に、どうせならドラマ放映中の盛り上がってる時に気づければ、もっと楽しかったのになあと思う。

 ある日、パスタを茹でていて、その横で夫が洗い物をしていたのだけど、パスタが茹で上がって、シンクで水を切りたかったので、夫に注意を促そうと思った時に、ふと閃いて、あの感じで、「パスタ出るよー!」「水切るよー!(へその緒切るよー!みたいな気分で)」って言ってみたら、妙にはまってて、楽しくて、それが始まり。であった。

 それからは、晩ごはんの呼びかけは、「ごはん出るよー!」になるしね。唐揚げに、「レモン絞るよー!」とかね。塩気が足りなかったら、「塩かけるよー!」とかね。いや、字面だけだとめちゃ普通なんだけど、あの口調で言うと、そこはかとなく楽しくなるんだなこれが。ドラマ見てなかった人にはよくわかんない話で、すいません。

 あとは最近、コロコロチキチキペッパーズのナダルのモノマネもマイブームです。これは旬だから、まだいいよね。楽しいよ。うっかりナダルのLINEスタンプまで買いそうになってる自分がいて、こわいくらいだよ。

 そんなこんなで、モノマネしたり、その合間に大掃除したりしてたら、いつの間にか年が明けていました。昨年の振り返りのブログとか、書こうと思っていたんだけど、なんとなく筆というか、タイプというか、フリック入力というか、がのらない日々でした。というか、書き始めたらすごい個人を特定できるレベルの詳細な話になっちゃって、書くのをやめたというのもある。ふんわりぼかした文章って、じょうずに書けないのです。

 とりあえず今年の目標は、完璧にかっこつけられる人間になることです。

 あの、私、どうしても常日頃から余計なエクスキューズというか、卑下する言葉みたいなものを入れずにはいられなくて、去年からブログを書いていて、自分の文章のそういう部分がなんとなくずっと気になっていました。

 それは性格でもあるし、説明として必要だったり、そういう風に書いたほうが面白い気がする時もあるし、色々なんだけど、やっぱり、自分への自信のなさみたいなものが、どうしても大きいのだとつくづく思います。

 今までもそういう自信のなさをひとつひとつつぶしながら生きてきたように思うのだけど、克服したと思っていても、年賀状なんかを書いていると、ふと、過去の亡霊たちが現れて、苦しめてくる。克服したわけじゃなくて、ただ、物理的に距離を置いて、薄めてきただけだったのかもしれない、と思う。

 それを、これからは、もっと根本的に、つぶしてゆきたい。自信のなさを、克服してゆきたい。

 それで、完璧にかっこつけられるようになりたいっていうのは、照れたり、恥ずかしくなったり、私なんかが…って思ったりせずに、堂々と振舞ったり、言葉を発することができるようになりたい、ってことなんです。最初は形から、かっこつけでもいいから、とにかく堂々と。

 まあ、そんなの一朝一夕にできるものでもなし。このブログでももっとかっこつけた文章を書ければとは思っているけれど、すこしずつそうなっていければ、という感じで、当分は引き続き照れたり恥ずかしがったりしていると思うので、まあ、そんな大きな変化はないかと思います。気持ちの問題。

 そんなことを思った元日の夜。あけましておめでとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

結構楽しいです


 日曜の朝のテレビは夫の趣味で(とは言っても私も好きで)いつもドラゴンボール、ワンピースがついていて、そのままワイドナショー、未来モンスターとつけっぱなしになっていることが多い。

 でも私、未来モンスターが嫌いなんですよねー。なんでかっていうと、あのナレーションの声が嫌なんですよ。見たことある人はどんな感じかわかると思うけど、冒頭のタイトルコールからもう嫌で、高めの女の人の声で、吐く息多めで、「羽ばたけッ!未来モンスタァ☆」みたいな感じで、ちょっとイラっとさせられるというか。番組の内容は特に何とも思ってないんですけど。心が狭くてすみません。番組を好きな人が読んでたらもっとすみません。

 で、そのタイトルコールを私がたまに真似して遊んでたんですよね。その番組にたかみなが出てるので、他の番組でたかみなを見かけると夫が「あ、未来モンスターだ。」みたいに言うので、まあ、前フリかな、みたいに受け止めて、その都度親切に「未来モンスタァ☆」って言ってあげてたんですよ。全く似てないんですけど。

 そしたらこの間、「あー、明日の仕事やだなー。」みたいに私が言ったら、夫が、「頑張れッ!未来モンスタァ☆」みたいに言ってきたんですよ。えー、なんでそこで未来モンスター?ってびっくりしたんだけど、なんていうか発言の前向きなベクトルが、ミラモンの雰囲気と合致してて、言いたくなる気持ちは理解できた。それで、めっちゃ笑った。えー!って。だから、嫌いなんだって!って。あと、全然似てないし、男の声でやると気持ち悪いし。

 私、夫と付き合い始めた当初は、夫はとりたてて面白くはない人だって思ってたんですよ。と言うとすごいディスってるみたいだけど、私は、恋愛には安心感がいちばんだと思ってて、面白さは特に求めてなかったんですよね。それに、面白くないけど「面白いでしょ?」って感じでたくさんおしゃべりされるとちょっとやだなーって思うけど、夫はわりと聞き役の相づち上手、みたいなタイプだったので、あまり気にならなかった。

 でも一緒に暮らしてるうちに、面白くなってきた。笑いのツボが合うようになってきた。普段見るもの聞くものが大体一緒だから、嗜好が似てくるっていうのもあると思うし、それより何より、一緒に暮らしているうちに、かっこつけたり、恥じらったりみたいな、そういう殻がどんどんむけてきちゃって、うけなくても、つまらなくても、言いたくなったら言っちゃう、みたいな勢いが出てきたんだと思う。実際、思いついて言いたくなって言っちゃったみたいな親父ギャグも夫はよく言ってきて、しかもめっちゃつまらなくて、「ハァ?」みたいになるけど、夫婦の生活はひな壇の上にいるのとは違うので、それが評価の対象になったりはしないというか、なんだろう…もう磐石な基盤があるから、ちょっとつまらないってくらい何の問題もないっていう感じなんですよね(のろけ。とは言え磐石さを保つためには思いやりとか努力が大切で、それはさぼらないようにしたい)。そういう安心感から、数打てるようになって、その中に当たりが出てくるって感じで、相対的に面白さがアップしてるんだと思います。たぶんお互いに。

 そんな感じで、結婚生活、結構楽しいです。

心がこもっていない言葉はわかる


 最近、仕事で、「まあ別に聞かなくても大丈夫なことだけど、形として聞いておいたほうがいっか」みたいな場面での自分の言葉があまりに心がこもっていないというか、言おうとして言っている感が我ながらビンビンに感じられて、その言葉を発した途端に落ち込んでしまったりする。思っていないなら言うなよ、って感じ。

 それは例えば、退社する時に、先にあがるのを遠慮してる体で「何かやれることありますか?」と聞いてみたりだとか(ほんとうは、やるべきことは終わっているので「帰っても大丈夫だろう」と判断している)。朝、当番制じゃないけど、手があいている誰かが必ずやらなきゃいけない仕事を他の人がやってくれた時に、「あ、お願いしていいですか?すみません。」みたいに一声かけたりだとか(ほんとうは、それを自分がやる時は何とも思っていないので、他の人がやってくれた時はありがたいけど、申し訳ないとまでは思っていなかったり。ありがとうございますっていう方が適切かあ)。

 前提として、今の職場の方々は、みなさんとても信頼できる方々なんですよ。先に帰る人に文句言ったり、自分の仕事を減らすために人に押し付けたり、やらなきゃいけない仕事だけど他の誰かがやってくれるのを待ったり、とか、そうゆう人はひとりもいない。以前勤めていた会社はそんな人ばっかりだったので、こんな環境はほんとうにありがたいなあと思う。

 だからこそ、形だけの声がけなんて、必要ないというか。そういうところで何かを判断したり評価する人はいないから。

 それでも、人間関係の潤滑油的な感じで、言って悪いことはないとは思うんだけど、それが嘘くさく響くなら、っていうか、結局のところ、自分を良く見せようとして、思ってもいないことを言うくらいなら、そうゆうのはもうやめよう。って、つくづく反省したのでした。自戒としての文章。


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 接客とか、電話応対とかも、形だけの、マニュアル通りの言葉って、受け取る側にはわかるよね。その言葉を手順として言わなきゃいけないから、言っている感。

 仕事で結構電話をとるんだけど、「お世話になっております。」「ありがとうございます。」「よろしくお願いいたします。」を言う時には、それなりに心をこめることができていると思う。だって、ほんとうにそう思っているからね。

 でも悩みなのが、電話を切る時の「失礼いたします。」で、これって、自分も電話口のむこうの相手も両方が使う言葉じゃん。どっちが先に言うべきなのか、言われたら同じように言い返しているけど、言った/言われた途端に電話を切られたりするし、言うタイミングとか作法がいまいちよくわかっていないところがあって、うまく心をこめることができない。納得して使っていないというか。みんなどういう感じで使ってるのかなあ。

 まあ、世の中には、言葉の意味に特に納得していなくても、心がこもっていなくても、ほんとうに心の底から言ってます!みたいな感じで言える、接客のプロみたいな人もいっぱいいると思う。それができるなら、意味を理解して、納得したうえで心をこめるなんて、かえって遠まわりなのかもしれないな。

 ただ私はそういうのがそんなにうまくないので、そういうスキルを身につけようとするよりも、だったら遠まわりするほうが自分にとっては楽な気がするので、それを心がけようと思ったのでした。取り急ぎ「失礼いたします。」の意味をググるか。