自分の足場


お久しぶりです。この土日は、大学のサークルの同期10人くらいで旅行に行っていた。わいわいがやがや。夜はバーベキューもやった。かつてはテニサーを目の敵にしているようなうらぶれたサークルに所属していた私たちだけど、バーベキューをしていると、めっちゃリア充じゃん。と思った。2日目に街をぶらぶらして、やることがなくて何となく入ったカフェがおされカフェで、色とりどりの椅子に座ってめいめいコーヒーなどを飲んでいると(ビールを飲んでる輩もいたけど…)、よく知らないけどテラスハウスみたいじゃん、めっちゃリア充じゃん。と思った。リア充感を出すには、文字通り、背景が大事だ。海とかね。

先週は色々なブログを読んで、書かれていた内容について、色々なことを考えさせられていた。それをきっかけに、過去に遡り、かつて感じた色々な気持ちを発掘し、再構成しながら、ひとりで勝手に自分の内側の奥のほうへと沈んでいった。でも、なんというか…今現在の自分の実感からじゃなくて、誰かの文章に触発されて、そうして掘り起こした気持ちは、書こうとしても、どこかそれを自分のものとして書ききれない。気がした。少なくとも私にはあまり向いていないようだ。

私は基本的に、その人の経験という裏付けがきちんとある文章が好きだ。経験から得られた深い実感のこもった言葉たちは、つよく人の心の扉をノックする。だから私自身も、自分のこれまでの経験の範囲内のこと、そこから得られる実感にもとづいてしか、文章を書かないようにしようと思っているフシがある。身の丈にあった文章というか。そうすると、ほんとうに身の回りの卑近なことしか、書くことがない。私の世界はほんとうに狭くて小さい。

だからそれを少しでも広げたくて、人のブログを読むことも、見識を広めるためというか、ある意味で自分の世界を広げるためと言えるかもしれないけれど、そうして湧いてきた言葉が、まだ借りもののような気がするならば、無理に書くことはない。よね。と、思った。きっと、それが自分の言葉だと思えるならば、もっと逡巡は少ないはず。

案の定、にぎやかな土日を過ごしたら、考えていたことたちは、わりと遠くにいってしまった。ね。その程度のものなんだ。

そして、思いをめぐらすことは大事だけれど、何も奥のほうまで沈み込んで、消耗する必要はない。今現在の自分が、消耗するような悩みを抱えているわけではないのだから。そういえば私は昔、人の悩みや深刻な話などを聞くと、一緒になって沈んでしまうことがよくあった。話した本人は、翌日けろりとしているのに、私の方がしばらくその気分を引きずってしまったりして。こういうの、最近よく聞く言葉で、「自他の境界がない」って言うのかもしれない。沈み込んでいかないように、まずは自分の足場を固めることを、大事にしよう。