人との出会い

 

感染者数の増え幅がえぐい。でも私は今日友達とご飯に行ってきた。完全なる自己責任で、これで何かがあったとしたら家族に申し訳ないしかない。だいぶ前からの約束で、高級店のためキャンセル料もかかるとのことで、お金と天秤にかけて行くことに決めた。全然気は進んでなかった。

 

でも終わってみれば楽しかった。コロナで連絡を取るきっかけもなかなかなく、3年ぶりに会った。最初は微妙な気持ちだった。でも、会ったらやっぱり会ってよかったと思った。控えめにしようと思っていたのに会話は弾んで、いつのまにか人生について話していた。

 

同じコミュニティで、同じ時間を過ごした学生時代の仲間たち。それから15年経った今となっては、それは人生の中の本当に短い期間だったと思う。今の自分はその時とは全然違う。でも未熟で、自分を全部さらけ出して過ごすしかなかったかつての日々。それを共有してる友達って、やっぱり特別なんだと思った。趣味も性格も合わなくったって。

 

今大人になって、生活しかしてない。深いことに思いを巡らす余裕もなく、新たなインプットもない。でも積み重ねてきた日々の中でそれなりに思うことはある。それを語るのに、自分の背景を知ってくれているのといないのでは、全然違う。

 

私以外はみんなめちゃくちゃ賢くて、立派な企業でバリバリ働いている子達なのよ。専業主婦の自分なんて、立ち位置から劣等感しかないじゃん?しばらく会ってなかったら、そんな気持ちも益々膨らむじゃん。

 

でも!やっぱり会えば楽しい。働いていることや、お金を稼いでるとか関係なく、こんな自分のことを、ユニークだ、面白いと心から言ってくれる。なんてありがたい存在なんだろう。また明日から頑張ろうって思えた。

 

こういう会話はやっぱりリモートではなかなか弾まない。今日の自分の行動は何にも言い訳できないけど、会うことは大事だと、改めて思えたひとときだった。

いくつかの世界

とても疲れている。ほぼ毎日、午前、午後と違う予定が入っていて、自転車で出たり入ったりしながら、子供の幼稚園や習い事の送迎、誰かとの約束をこなし、その隙間に家事をしご飯を作り、常に子供の世話をして。そんな日々だ。忙しい。私にとってはすごく大変な日々。でもそれを軽々とこなす人もいる。毎日のように出かけて色んな人と会い子供をしっかりと遊ばせ、ご飯もちゃんと作って。それはよく会うママ友達のことで、その人のことは好きだけど、会う度プレッシャーを感じて、自分のだめさを痛感し、ものすごく疲れてしまう。

 

次女がとても手がかかるタイプで、常に構って欲しがって、日常の全てを妨げられている感じなので、イライラして、次女に辛くあたってしまう。人には言えない。心療内科に通って薬を飲んでいる。そんな母だから、次女はいつまでたっても満たされず、時々家族のことを引っ掻いたり噛んだりする。ごめんね。私のせいだよね。可愛いのに、大好きなのに、そんな風に思えなくなってしまうこともある。

 

件のママ友達の子供達は、明るく活発で、すくすくと育っているように見える。何にでも積極的に参加し、発達も早い。私は、次女の舌足らずだったり色や自分の年齢が答えられなかったり、恥ずかしがり屋で同じ年頃の子供とうまく関われないところも気になっていて(頭では、2歳児なんてそんなもの、成長の速度はそれぞれだよってわかっているのに)、そうして、上記のように自分自身が子供とうまく関われていなくて。人と自分を比べる。自分の子供がとても可哀想で申し訳なくて、消えたくなる。自分を責めてばかりで、頭の中が忙しく、でも体はどうにもぎこちなくしか動けない。周りの人も、自分を悪く思っているような気がする。被害妄想が酷くなってしまう。

 

そのママ友達と少し距離をおいた方がいいんだろうけど、子供達の習い事が複数がぶっており、会わざるをえない。どうしよう、どうしたら今のこの自分の状態を変えられるんだろう。何だか、辛くて。

 

そんな状態でまた連絡をもらって、昨日の午後も、今日の午前も、それぞれ別のママさんと会って子供達を遊ばせた。誘ってもらえるのは嬉しいしありがたい。コミュ障の自分がこんな風に人間関係を築けていることだって奇跡みたいに思うのに、でも体が疲れすぎていて、行く前はしんどかった。今の状況がますます悪化したらどうしようかと不安だった。(実際先月、忙しくしすぎて体調を崩し←胃腸炎&高熱、メンタルも肌もボロボロになった。)

 

でも実際に予定をこなしたら、体は本当に疲れているけど、言葉は比較的すらすらと出て、何気ないお喋りをしたら気持ちが楽になり、家に帰ったら限られた時間の中で残っている家事、やらなきゃいけないことをこなすために力を振り絞ることができた。子供の相手も、いつもより頑張れた。何でだろう、と思ったけど、それはきっと自分の中にいくつかの世界があると思えて、気が楽になったのだと思う。

 

今主に過ごしているコミュニティが全部先述のママ友達とかぶっていて、その子は他にいくつも世界を持っているのに、自分にはそこしかなく、その中でがんじがらめになっているような気になっていた。そんなことない。他の世界だってあるし、これから広げることだってできるのに、心と体が動かなくなると、そんな希望も持てなくなってしまう。

 

今回はたまたまいくつかの約束が続いて、少し抜け出すことができたけど、日頃のルーチンの中ではまたすぐ同じ悩みに取り込まれてしまう気がする。気をつけよう。そうならないように注意を払って、疲れすぎない程度に自分からも連絡をとり、今いる友達を大事にしようと思った。ママ人生も積み重ねてきて、色んな縁が繋がっている感じだ。

 

引越して実家も近くなって、夫も週末は子供達とよく遊んでくれて、人よりもずっと助けてもらいながら育児をしているのに、どうしてこんなに大変になっちゃうんだろうね、自分。でも昔からそうなんだからしょうがないじゃない、と別にネガティブなニュアンスでなく、母が言う。私もわかっている。受け容れるしかない、私は私でしかない。それでも、人と比べることから逃げられない。いつかそこから抜け出せるように、なりたい。

 

こんな母だけど、長女は最近すっかり成長してお姉さんになってきた。次女のウザ絡みに前はいちいちキレ散らかして、酷い時は噛んだりしていたけど、今は適当に相槌をうって、ほどほどに相手をしてあげたり、いなしたりする技術が身についてきた。私より余程スルースキルが高いんじゃないかなって思うくらい。塗り絵や工作も上手で、アイデアが豊富で驚かされる。習い事も楽しんでいる。youtubeの見過ぎで喋り方がウザい時もあるけど、長女の成長にとてもとても助けられているよ。

 

そして、散々色々書いてしまったけど、次女も日々成長してる。偏食が酷かったけど、少しずつお肉にも挑戦するようになった。癇癪を起こしても、その後泣きながら謝ってくれたりする。自分で一生懸命、気持ちを切り替えようとしているんだよね。私が話してること、実は結構理解してくれてるってわかってる。その上で我慢したり、自分を抑えたりするのなんて、2歳にはまだまだ難しいんだ。お喋りもずいぶん上手になって、少し前の出来事や、私がいない時の出来事を、楽しかったとか、怖くて泣いちゃったとか、自分の気持ちと一緒に説明してくれたりする。お姉ちゃんの全てを真似っこする、でも微妙に違ってたりする姿は微笑ましくて可愛いし、外では恥ずかしがり屋でも家ではひょうきんで、たくさん変顔して笑わせてくれるよね。歌も上手になってきた。小さな成長も、全部書き残しておきたいくらい、大切で大好きだってことを、今日は最後にたくさん書けたので、少し良かった。明日も頑張ろう。

 

全てがあった

健康診断で、久しぶりに一人で電車に乗って新宿に出かけた。電車に乗ったのは4ヶ月ぶりくらい。車で来ることはあったけど、街中を歩くのなんて何年ぶりとかかもしれない。

 

かつては通学、通勤共に定期圏内だったのもあり、新宿には来慣れていたけど、今は完全なるアウェイ。色んなものが新しくなっていたし、街を歩いた途端に、ああここには全てがあるなと思った。普段生活していて、これが欲しいなー、でもあそこまで行かないとないなー、ってことばかりだけど、新宿に行けば何だってある。でも今は、新宿までの距離が、心理的にとてもとても遠く感じる。子供を連れて行くのもハード、そんな中でお店を見るのもハード、そもそもコロナ禍でスーパーハード。

 

健康診断を終えて、せっかくだからランチでもしたいなと思ったけれど、換気が良くて、混んでなくて、程よい感じのお店…なんて思うと、無限の選択肢がある新宿でそれを見つけるのはとても困難に感じて、すごすごと帰りの電車に乗った。でも、最寄り駅の近くで良いお店を見つけてふらりと入る事ができた。本当に久しぶりの一人ランチ。ここのところずっと美味しいパスタが食べたいと思っていたので幸せだった。ちなみに私はワクチン2回接種済みです。リスクは承知の上でございます、と注釈をつけなきゃいけない窮屈な世の中。

 

新宿でそびえ立つビル群を見ながら、次女(2歳半)はまだこの光景を知らないかもしれないと思った。人生の半分以上がコロナ禍だから、彼女の記憶に残る範囲では、ここまでの都心に出てきたことはないんじゃないかな。長女は一応色んなものを知っている。デパートも、ショッピングモールも、遊園地も、お祭りも、花火大会も、コンサートも、映画も、アンパンマンミュージアムも。でも次女は圧倒的に知らないし、なかなか連れて行くこともできない。本当はもっと色んなものを見せてあげたい。悲しい。

 

そんなことを考えてる自分はきっと子供への愛はある、そう信じたい。

 

歩きながら、片耳にイヤホンをつけてまたラジオを聞いていた。伊集院光のラジオに、甲本ヒロトがゲストで出ていた回。ヒロトは、ただ起きて、ご飯を食べて、そんなことが幸せだって言ってた。今は、そんな普通のこと全部が子供に邪魔されてる日々だ。こんな言い方、ひどいと思うけど、体感としてはそうなんだ。全てがスムーズにいかない、没頭させてもらえない。だから全部が面倒くさくなる。でも、子供は成長するから、きっと私も少しずつ自由を取り戻していくだろう。そうしたら、普通のことがきっとまた幸せに感じられるはず。元々私は、そう感じられる心を持っていたはずだから。

 

断片

育児だけにまみれた日々の中で自分がどんな人間だったのかをすっかり忘れてしまったので、少しずつ思い出そうとしている今日この頃。

 

星野源オールナイトニッポンにオードリー若林がゲストで出ていたのでradikoで聴いた。自分にとっては普通で、不足もないと感じているのに、周りの人から変だ、足りないと言われて阻害され続けた人生だった。そんな内容のことを2人が話していて、私も全くそんな風に思っていたのだということを思い出した。

 

昔こんなブログも書いていた。

ただ面白いということ - あの日からのつづき

 

今の私は世間的に普通だと思う。阻害を感じることもそうない(専業主婦という立場に感じることはある)。とはいえ基本的にはコミュ障で、喋ろうと頑張りすぎては脳内反省会の繰り返しなので、普通の人っぽく擬態してるだけではある。

 

こうなりたかったような気もするし、幸せなんだろうと思うし、でも実際には今はつまらない。働いてたら違ったのかな。不妊で悩み、授かった時はとても嬉しかったのに。子供のことを憎らしく思うこともあるけど、根本にもちろん愛はある。それでも、それだけでは満たされていない。悲しい。

 

コロナ禍で休校になったりするちょっと前に大学時代の友達と久しぶりにサシ飲みした時、「(私)は内面が深いと思う」って言われて、嬉しかったし、かつて自分でそんな風に思えていた時もあった。阻害されながら、でもそういうちょっと違う自分に、自分らしさを感じていたんだな。でも、今は何もないな、空っぽだし、別に過去だって空っぽだったような気もする。星野源と若林の話に共感はすれど、ポテンシャルが全く違うので少し悲しい。

 

私は自己肯定感が本当に低いんだな。書いていてつくづく思った。あとは今の生活は、インプットとアウトプットが圧倒的に足りてない。時間的にも、エネルギー的にも今は無理だけど、少しずつそれらを増やしていけば、もう少しマシな自分になれるんだろうか。あとは、働くことかな。

 

長女が最近ピアノを習い始めて、実母が電子ピアノを買ってくれることになった。「ばあばがピアノを買ってあげるけど、それは長女ちゃんだけのものじゃないんだからね。次女ちゃんと、ママの、3人で使ってほしくて買うの。ママって本当はとてもピアノが上手なんだよ。だから独り占めしないでね。」実家に行ったら、母が長女とそんな話をしていた。「(私)にも、弾いて欲しいと思ってるのよ」と私にも言った。うん、私も弾きたい。コツコツ練習して、弾けるようになって嬉しくて、楽しくて、そんな自分になりたい。母の話はとてもいいアイデアのように聞こえて、少し希望が見えた気がした。

 

こんな日記を布団の中で書いていたら、次女が横でぶうっと寝っぺをした。大人(夫)がしてたら嫌だけど、子供のそれはクスッとさせられて、可愛い。子供は全部がだだもれで、そのまんまで生きている。接している自分もそのまんまになれるから、だから好きなんだって、大学生の時(幼児教室でバイトしてた)思ってたことも今ふと思い出した。子供が好きってことに自信を持ってた自分が育児にこんなに苦戦するなんて、その時は想像もつかなかったな。

 

矛盾

フジロックの配信を見てた。激しい音楽はもういいなどと書いたばかりなのに、自分の中のロックな気持ちが暴れ出した。あれ、まだいたのね。やっぱり私ロックが好きだったよ。

 

オリンピックはマジで興味なかった。中止にしなかった政府を憎らしく思った。今、コロナが本当に怖い。9月から子供を幼稚園に普通に行かせていいのか迷っている。こんな情勢だからフジロックは開催すべきではなかった。そう思う。今も心からそう思ってる。

 

でも配信を見てブチ上がる自分がいた。音楽を心から楽しみたいのにコロナのせいでノイズがかかる。それがすごく嫌だった。でもライブを見ているうちにそんなことは遠のいていった。ひたすら、格好良かった。音楽。こんなにもたくさんの人を踊らせることのできる、音楽。不要不急のもの。オリンピックを夢中になってテレビで見ていた人たちもきっとこんな気持ちだったんだなあ。その時はシニカルな目でしか見られなかったけど、所詮私も同じ穴のムジナでした。

 

昨日はナンバガを見ようと思いつつ何となく同時間のKing Gnuをチラ見したら持ってかれた。ライブがめちゃくちゃ格好良いバンドだった。うん、日常で聞くにはちと1曲1曲が重いけど、ライブっていう非日常でブチ上がるには最高だった。ナンバガも格好良かった。ギターの田渕さん、男たちに混じってロックしてる。すごいよ最高だよ。omoide in my headはどうしてイントロからこんなに私の心をドロドロのエモエモにするの?

 

今日は、清志郎バンドの後半と電気グルーヴも見られた。子供って、どうして親が自分以外のものに熱中してると妨害してくるんだろうね。なんで、好きなものを普通に見るだけのことがこんなに大変なのか。清志郎の時はアレクサでうっせえわをかぶせてくるっていう嫌がらせにあった。電気は寝かしつけの布団の中で全部見てた。

 

清志郎の曲は特に若い頃の思い出と結びついていたので、色々思い出したくなくて聞けずにいたけれど、やっぱり最高だなと思った。なんか最高とかしか出てこないね、語彙力。キモチEでヒロトガリガリの体で出てきた時の、最初のウッて思う感じ。ブルーハーツの映像を初めて見た時のことを思い出した。でもとってもチャーミングで、そう私、この人のこと大好きだったんだよなって。そして電気のライブ。最高すぎた。布団の中で本当は踊りたかった。こんな音とリズムと光の世界を生み出せる石野卓球って人は天才なんだろう。パーソナリティに問題があっても天才なんだからかなわない。その親友の瀧だってきっと変態。何よりステージの上の楽しそうなメンバーもとてもよかった。

 

よくわからないテンションで今の気持ちを書き記しておいた。自分の中の忘れてたものを呼び覚ましてくれたフジロック、ありがとう。本当は開催して欲しくなかったけど、でもありがとう。いつか見に行くね。その時は何のノイズもなく心から音楽を楽しめますように。