娘の成長、私の成長


1歳3ヶ月の娘の、近頃の成長ぶりは見ているととても面白い。この数ヶ月くらいは、ひとりで立ち、歩けるようになる、という動作面の成長のゆっくりな過程で、日々の変化は少なかったように思うけど、年末頃から、言語や知覚面でのめざましい成長を急速に感じるようになった。

「め!」とか、「ご飯」とかの意味が通じるようになってきたなあ、ってところから、「ごちそうさまでした」を「ご…たー!」って言うようになったり、ぶたのぬいぐるみを近づけると「ぶーぶー」って言うようになったり。「おかあさんといっしょ」冒頭の「みんなー元気ー?」の呼びかけに、テレビの中の子どもたちと一緒に「はーい!」をしたり。「きんぎょがにげた」の絵本の、にげた金魚を探して指させるようになったり。

日々、昨日はできなかったこと、言えなかったことが、できるように、言えるようになっていて、そういう小さな発見が面白く、夫婦で共有してるアプリの育児日記に、忘れないうちに書き留めねば!って慌ててメモしてる。

そして、そういう風にすごい勢いで成長してる娘を間近に見ているからか…、最近、自分自身の成長のなさ、停滞ぶりが、心底嫌になってきた。ただ、日々、やらなきゃいけない家事育児をこなすだけでまじで精いっぱいだし、それも全然満足のいくレベルでこなせているわけではないし。本を読んだり、音楽を聞いたり、そういう文化的な活動を全くできていないし(Eテレの童謡は毎日聞いてるけど)、それを欲しているかというと、別に欲していない気もする。そういうエネルギーがない。

そうなると自分から出てくる話は家事と育児などの生活のことしかなくて、そんな話題しかでてこない自分はクソつまんない人間だなと思うし、まあママ友さん達と話している時はそういう話題でも十分盛り上がるんだけど、それにしても自分が発することは雑談や愚痴などがメインで、価値ある情報を提供できるわけでもない。ママ業が天職って感じの100点ママが地域の情報や育児の知識を毎度毎度教えてくれたりするので、そういう人と自分を比べても落ち込んでしまう。

100点ママを目の当たりにすると自分はこうはなれないな、とつくづく思う。たぶん私は仕事をしていたほうがいいんだろうな。いい、というか、まだマシ、という感じ。バリバリ仕事をする体力に欠けているので、100点仕事マンにもなれないんだけど、業務を創意工夫して効率化したりするのは好きで、事務作業は早いほうなので、そういうことをできる自分は悪くないって思えるから。ママ業で、まだそういう自信を持てる部分を見つけられてないんだな。

こんな私が、娘が大きくなった時に、一体何を教えられるんだろう。何を与えられるんだろう。と思うと辛い。今書いてて泣けてきた。ただ一生懸命育てるだけでいいじゃん、愛情を与えられればいいじゃん、とも思うけど、自分には「価値ある」何かが何もないように思う。そして、書いてて、価値って一体なんだよ、自分は価値に縛られてるんじゃん、とも思えてくる。周りの人にとっての、ママ友にとっての、娘にとっての、価値ある何かを得たいって、それって結局は、他人にとっての指標ってことじゃん。

書いてるうちにだんだんエモくなってきた。そして何となく今の自分の問題点もあぶり出されてきた。周りとか関係なく、ただ自分自身が成長すればいい。ひとつでも、自信が持てることを見つけられればいい。誰かに何かを提供する、という考えを捨てる。娘と一緒に、私も成長していこう。

近況


土曜の昼間、夫に娘をお願いし、同じ沿線上に住む友達との飲みにこれからむかうところ。

無事断乳したので(意外にあっさりとできた)、今はほぼ毎日お酒を飲んでいる。語るほどのこともない日々を過ごしていたけど、お酒を飲み始めたら少しずつ言葉がぽろぽろとこぼれるようになってきて、お酒ってやっぱりなんか人生の余白なんだな、と思う。

元々の待ち合わせ時間を30分遅らせてもらったうえに電車を1本乗り遅れて10分の遅刻で、ほんとうに私はだらしない。

夫の単身赴任が終わって、家族3人で住むようになって3ヶ月ちょっと。実家まではバス1本で帰れる場所なので気楽。

娘は1歳になって、今は1日中歩き回っていて、ただ歩くだけで楽しいといった感じで、元気に育ってる。

ママ友も数人できて、それは今のところネットなどで見る面倒な関係性ではなくて、ママ友たちと集まって色々ぐだぐだと話している時間にマジで結構心を支えられていたりする。

しかしとにかく私はいま生活に追われていて、家事がいつまでも終わらなくて、料理が面倒くさくてしょうがなくて、夫は仕事に追われていて残業がデフォルトになっていて、平日はひとりで育児をしていて、どうにもこうにも疲れきっている。

どうしてこんなに追われているのかなあ、何を省いて、どう効率化していけば、もっと心安らかでいられるのだろうか。

ただ娘はかわいい。イヤイヤ期が始まる前の1歳児はただただかわいい。グズグズでイライラさせられることもあるけど、やっぱりかわいくて、癒し。

静か


相変わらず、実家で子育てをしている。夫の単身赴任は残り数ヶ月。早く3人で暮らしたい。育児の幸せと苦労を、夫婦できちんと受け止めて分かち合いたい。

実家は楽だけど、少し息苦しい。一度実家を出たからこそよく見えるようになった、家族の歪な部分。でも、何十年も両親が積み重ねてきてしまったものだから、今更それをドラスティックに変えることは難しいのだ。それこそ、熟年離婚みたいなことになっちゃう。

今、久しぶりに家にひとりでいる。この週末は夫が来ているので、さっき娘を連れて散歩に出てもらった。両親も仕事や用事で出かけている。

ほっともっとのお弁当を食べて、そのごみを片付けもせず、机の前でぼんやりしている。テレビもつけていないから、ほんとうに静かだ。なんだろう、この静けさが、色んなもやもやを洗い流してくれるみたいな感じがする。退屈で、なんにもやる気がしなくて、でも心地よい。

月曜日、私が風邪を引いて、熱が39度近く出た。今日あたり、やっとだいぶ治ってきたかな、というところだ。

近ごろ、娘が下痢気味で離乳食をほとんど出してしまうようになり、おむつかぶれがひどくなったのと、頭皮の脂漏性湿疹でフケがポロポロ出るようになってしまった。機嫌もそこまでは悪くないし、育児書を見ても病気ではなさそう。きっと大したことではない、でもかわいそうで、何かと気をもんでいた。

しばらく様子を見ていたけど、長引いてきたので、月曜の午前中に小児科に行った。そこで、今後の指導と薬の処方と、「大事ない」というお墨付きをもらった。ああ、もっと早く行ってあげればよかったな、という後悔もあったけど、ようやく少しほっとしたら、その日の午後にぐんと私の熱が上がってしまったのだ。

去年の年末にも風邪を引いて、その時は確か、年末のバタバタの最中の、義実家への泊まりがけでの帰省の後だった。赤ちゃん連れの旅行も初めてだったし、何かと気苦労が多かったのだけど、やっぱり、無事終わってほっとしたタイミングで。そういうものなんだな。最近は気候の変動が激しかったので、風邪を引きやすい時期というのもあったと思うけど。今までそんなに頻繁に風邪を引くタイプではなかったのに、産後は体が弱るものらしい。

今回の下痢などを除けば、娘もうすぐ8ヶ月は元気元気。体力のない自分から、こんな元気者の娘が産まれてくるなんて思いもよらなかったよ。最近はずりばいで行動範囲をどんどこ拡大し、何かにつかまって足をつっぱり今にもつかまり立ちしそうな勢い。成長著しい娘に、日々エネルギー吸い取られてます。

そう、私、ちょっと疲れてたんだな。今、こんな時間を求めてたんだな。このタイミングで、この静けさの中で、ひとりになることができてよかったよ。だいぶ頭の整理ができた。さすがに弁当がらはもう片付けて、今はベッドの上でごろごろしている。音楽でもかけようか、本でも読もうか(こんな気持ちになること自体が久しぶり)、でもやっぱり昼寝かな。寝て起きたらまた娘や、家族や、色々なものにほどほどに向き合いつつ、それなりにがんばる。おやすみなさい。

少しずつ母に


お久しぶりです。娘は6ヶ月。むちむち元気で育っているけど、寝返りができたのはつい最近で、少しゆっくりだったのかもしれない。

寝返りをおぼえるまでは抱っこ抱っこで、抱っこしても足をぴーんとのばしたり首をぐーんとそらせたりで結構じっとしてなくて、もっと動け、もっと色んなものが見たいんだ、とばかりの勢いを感じていたのですが、寝返りするようになったら、自分でぐいっと首をあげて、色んなものが見られるようになって、触りたいものにむかってじたばたと手足を動かし、ずりばいも練習中といった感じで、だいぶ世界が開けたみたいだ。

そうしたら、そんな感じでずっとひとりで遊んでいて、わりと放っておいても大丈夫な時間が増えてきて、あれ?って感じで、今ものすごく、楽。

寝返り返りをおぼえたら、コロコロとどこまでも転がっていくんだろうし、そのうえはいはいや立っちをおぼえたら、どんどんと目が離せなくなっていくんだろうから、今はボーナスタイムなのかも。

それで、楽で、純粋に娘を愛でられる心の余裕がでてきたみたいで、今娘がかわいくてしょうがないのです。娘は娘で、実家にいるのでじじばばもいるけど、やっぱり私と過ごす時間がいちばん長いからか、そばを離れると泣く、みたいのが私にだけ発動したりして、そういうのもキュンキュンします。ああかわいいな。

やっと母になってきたかな。私。なかなかやってこなかった、この感覚。まじりけなしの愛おしさ。

夫はわりと娘が生まれた瞬間から(立ち合った)、父性全開100%って感じで、でも私は、そうではなかったんだよね。

もちろんかわいい、もちろん大切だ、でも娘は、突然私の生活の中にあらわれた小さな生き物、って感じで、どこか客観性がずーっとあった。

無痛分娩だったからかな?と、無痛反対論者に「それみろ」と言われそうなことを考えたりもした。痛みを感じないと母親になれないみたいな。

たぶん夫が特殊な単身赴任中で、実家にいるというのも大きい気がした。いつまでたっても、私自身の娘気分が抜けないのだ。

だけど、どんな状況でも、すぐに母になれる人はきっとなれるし、ゆっくりな人はゆっくりなんだろうと最近は思う。その人それぞれのペースがあるんだ。

色々な出来事を経て、少しずつ母になってゆく。

お宮参りやお食い初めで、あれこれ段取ってどたばたしたり。月齢が近い友達の赤ちゃんと会って、娘の成長に不安を感じたり。コロリンと寝返りして、喜んだり。家族3人で初めての温泉旅行に行って、水入らずの時間を楽しんだり。眠れない夜中に、生まれてすぐの娘の写真を眺めて、大きくなったなあとしみじみしたり。

そういうささやかで、でもすごく幸せで、ふと振り返ると涙がでそうな日々を積み重ねてる、今。からりと晴れて、気持ちのよい日に、ベビーカーで娘と公園に散歩にきて、娘がうとうとと眠っている横で、ブログを書いてみました。あ、起きた。

目の前にすると惜しくなる


会社を辞める時も、住み慣れた場所を引っ越す時も、家族の構成が変わって、生活が大きく変わる時も。

その時がそれなりに幸せだと、今の目の前にある人を、ものを、環境を、失うのが惜しくなって、寂しくてしょうがなくなってしまう。

でも大抵の時は大丈夫で、新しい暮らしもきちんとそれなりに幸せであれば、以前のことはすぐに忘れてしまう。忘れてしまうんだ。

いくつかの経験を経てそのことがわかってきて、そんな自分のことを薄情だとも思うけれど、それでも変化の前にはいつだって心乱れてしまうから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。大丈夫、すぐに忘れてしまうから。

忘れてしまうと言ったって、消えてしまうわけではなくて、うすまって、心の奥の方に沈んでいくだけだ。たまにその記憶を思い出させるトリガーみたいなものに触れた時、急に溢れ出してくる。そうして少し感傷的になって、でもそんな風に感傷的になる時間が私は嫌いじゃなくて、うすまっていくうちに、何だか美化された過去を懐かしんでいると、また前に進もうと思えたりする。

前回のブログにも書いたけれど、そんなトリガーを、自分の中にたくさん持っていたくて。忘れてしまうからこそ、消えてしまわないように、その担保として。音楽や、写真や、映像や、言葉や。たくさん、たくさん。

***

1年間楽しんだ真田丸も終わった。最終回、泣いた。直接的な死を見せられなかった幸村よりも、内記や作兵衛の死に涙したなあ。あとは三十郎。さなロスだ〜と終わった後も一人しばらく泣いてた。これがロスってやつかと。でも今は少しずつ思い出すことも減ってきて、でも、自分の中の、日本史を知りたいという火を絶やしたくなくて、戦国時代のことをもっと知りたくて、huluで天地人も見始めたりしているよ。

3ヶ月間楽しんだ逃げ恥も終わった。最終回の日は夫が帰省していて見られず、それからしばらく忙しくてずっと見られなくてさっきやっと見たけれど、その程度だ。最終回をしばらく見られなければ見られないで、見ないでもきっと大丈夫だったくらいの。見たら見たで、楽しかったなあ、最終回のガッキーはちょっと苛立った場面もあり、かわいくなさみたいなものがでてきていたけど、これがリアルだよなあって思ったり。そんな夢みたいな存在いないよなって。

そして昨日は、私が物心ついた時からテレビの中にずっと当たり前に存在していたSMAPが終わった。これから娘が生きていく世界は、SMAPのいない世界なんだな。そんなことにびっくり。とは言え、解散が決まってからも、スマスマを見たり別にしていなかったし、今年1年、ほとんどSMAPが存在していなかった日々を、私は当たり前に生きていた。昨日のスマスマ最終回、ビデオに録ろうと思っていたのに、すっかり忘れていて、始まる時間も忘れていて(風邪ひいて寝込んでたし…)、森くんがいなくなった後のセクションから何とか見られた。そこで録画ボタンも押したけど、なんか操作間違ってて、20時くらいまではNHKの、なんか刀の意匠について、みたいな、堅苦しくって、ほんっと心の底から!今はまじでどーでもいい!番組を録っていて、ほんと私マジばか死んじまえと思ったけれど、まあ五人旅と27時間のライブと最後の世界にひとつだけの花くらいは録れた。そう、あの、最後のステージ。お辞儀して、幕が下りてゆく演出、こんなの、悲しすぎない?こんな最後、寂しすぎるよ!って、涙がとまらなかった。その後の、幕が下りた後の姿、中居くんの涙を見て、少しは心慰められたけれど。身体が何よりも雄弁なこともある、なんて、なんでSMAPからそんなことを教わらなくちゃいけないんだろう。

スマスマを見なければべつに思い出さなくて、こうして最終回で、目の前にSMAPの生き生きとした姿を見せつけられると、ああ、失いたくない、失うのが惜しいと、私はまた思っている。都合よく。私のいつもの思考パターンで。

きっとすぐに忘れてしまうけど、しばらくは忘れたくないし、また時々思い出して感傷的になりたいから、最終回はばっちり録画しておきたかったのになあ。(ちなみにいいとも最終回は録画してある、真田丸も途中から録画残してる。)アルバム、買うかなあ。