静か


相変わらず、実家で子育てをしている。夫の単身赴任は残り数ヶ月。早く3人で暮らしたい。育児の幸せと苦労を、夫婦できちんと受け止めて分かち合いたい。

実家は楽だけど、少し息苦しい。一度実家を出たからこそよく見えるようになった、家族の歪な部分。でも、何十年も両親が積み重ねてきてしまったものだから、今更それをドラスティックに変えることは難しいのだ。それこそ、熟年離婚みたいなことになっちゃう。

今、久しぶりに家にひとりでいる。この週末は夫が来ているので、さっき娘を連れて散歩に出てもらった。両親も仕事や用事で出かけている。

ほっともっとのお弁当を食べて、そのごみを片付けもせず、机の前でぼんやりしている。テレビもつけていないから、ほんとうに静かだ。なんだろう、この静けさが、色んなもやもやを洗い流してくれるみたいな感じがする。退屈で、なんにもやる気がしなくて、でも心地よい。

月曜日、私が風邪を引いて、熱が39度近く出た。今日あたり、やっとだいぶ治ってきたかな、というところだ。

近ごろ、娘が下痢気味で離乳食をほとんど出してしまうようになり、おむつかぶれがひどくなったのと、頭皮の脂漏性湿疹でフケがポロポロ出るようになってしまった。機嫌もそこまでは悪くないし、育児書を見ても病気ではなさそう。きっと大したことではない、でもかわいそうで、何かと気をもんでいた。

しばらく様子を見ていたけど、長引いてきたので、月曜の午前中に小児科に行った。そこで、今後の指導と薬の処方と、「大事ない」というお墨付きをもらった。ああ、もっと早く行ってあげればよかったな、という後悔もあったけど、ようやく少しほっとしたら、その日の午後にぐんと私の熱が上がってしまったのだ。

去年の年末にも風邪を引いて、その時は確か、年末のバタバタの最中の、義実家への泊まりがけでの帰省の後だった。赤ちゃん連れの旅行も初めてだったし、何かと気苦労が多かったのだけど、やっぱり、無事終わってほっとしたタイミングで。そういうものなんだな。最近は気候の変動が激しかったので、風邪を引きやすい時期というのもあったと思うけど。今までそんなに頻繁に風邪を引くタイプではなかったのに、産後は体が弱るものらしい。

今回の下痢などを除けば、娘もうすぐ8ヶ月は元気元気。体力のない自分から、こんな元気者の娘が産まれてくるなんて思いもよらなかったよ。最近はずりばいで行動範囲をどんどこ拡大し、何かにつかまって足をつっぱり今にもつかまり立ちしそうな勢い。成長著しい娘に、日々エネルギー吸い取られてます。

そう、私、ちょっと疲れてたんだな。今、こんな時間を求めてたんだな。このタイミングで、この静けさの中で、ひとりになることができてよかったよ。だいぶ頭の整理ができた。さすがに弁当がらはもう片付けて、今はベッドの上でごろごろしている。音楽でもかけようか、本でも読もうか(こんな気持ちになること自体が久しぶり)、でもやっぱり昼寝かな。寝て起きたらまた娘や、家族や、色々なものにほどほどに向き合いつつ、それなりにがんばる。おやすみなさい。

少しずつ母に


お久しぶりです。娘は6ヶ月。むちむち元気で育っているけど、寝返りができたのはつい最近で、少しゆっくりだったのかもしれない。

寝返りをおぼえるまでは抱っこ抱っこで、抱っこしても足をぴーんとのばしたり首をぐーんとそらせたりで結構じっとしてなくて、もっと動け、もっと色んなものが見たいんだ、とばかりの勢いを感じていたのですが、寝返りするようになったら、自分でぐいっと首をあげて、色んなものが見られるようになって、触りたいものにむかってじたばたと手足を動かし、ずりばいも練習中といった感じで、だいぶ世界が開けたみたいだ。

そうしたら、そんな感じでずっとひとりで遊んでいて、わりと放っておいても大丈夫な時間が増えてきて、あれ?って感じで、今ものすごく、楽。

寝返り返りをおぼえたら、コロコロとどこまでも転がっていくんだろうし、そのうえはいはいや立っちをおぼえたら、どんどんと目が離せなくなっていくんだろうから、今はボーナスタイムなのかも。

それで、楽で、純粋に娘を愛でられる心の余裕がでてきたみたいで、今娘がかわいくてしょうがないのです。娘は娘で、実家にいるのでじじばばもいるけど、やっぱり私と過ごす時間がいちばん長いからか、そばを離れると泣く、みたいのが私にだけ発動したりして、そういうのもキュンキュンします。ああかわいいな。

やっと母になってきたかな。私。なかなかやってこなかった、この感覚。まじりけなしの愛おしさ。

夫はわりと娘が生まれた瞬間から(立ち合った)、父性全開100%って感じで、でも私は、そうではなかったんだよね。

もちろんかわいい、もちろん大切だ、でも娘は、突然私の生活の中にあらわれた小さな生き物、って感じで、どこか客観性がずーっとあった。

無痛分娩だったからかな?と、無痛反対論者に「それみろ」と言われそうなことを考えたりもした。痛みを感じないと母親になれないみたいな。

たぶん夫が特殊な単身赴任中で、実家にいるというのも大きい気がした。いつまでたっても、私自身の娘気分が抜けないのだ。

だけど、どんな状況でも、すぐに母になれる人はきっとなれるし、ゆっくりな人はゆっくりなんだろうと最近は思う。その人それぞれのペースがあるんだ。

色々な出来事を経て、少しずつ母になってゆく。

お宮参りやお食い初めで、あれこれ段取ってどたばたしたり。月齢が近い友達の赤ちゃんと会って、娘の成長に不安を感じたり。コロリンと寝返りして、喜んだり。家族3人で初めての温泉旅行に行って、水入らずの時間を楽しんだり。眠れない夜中に、生まれてすぐの娘の写真を眺めて、大きくなったなあとしみじみしたり。

そういうささやかで、でもすごく幸せで、ふと振り返ると涙がでそうな日々を積み重ねてる、今。からりと晴れて、気持ちのよい日に、ベビーカーで娘と公園に散歩にきて、娘がうとうとと眠っている横で、ブログを書いてみました。あ、起きた。

目の前にすると惜しくなる


会社を辞める時も、住み慣れた場所を引っ越す時も、家族の構成が変わって、生活が大きく変わる時も。

その時がそれなりに幸せだと、今の目の前にある人を、ものを、環境を、失うのが惜しくなって、寂しくてしょうがなくなってしまう。

でも大抵の時は大丈夫で、新しい暮らしもきちんとそれなりに幸せであれば、以前のことはすぐに忘れてしまう。忘れてしまうんだ。

いくつかの経験を経てそのことがわかってきて、そんな自分のことを薄情だとも思うけれど、それでも変化の前にはいつだって心乱れてしまうから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。大丈夫、すぐに忘れてしまうから。

忘れてしまうと言ったって、消えてしまうわけではなくて、うすまって、心の奥の方に沈んでいくだけだ。たまにその記憶を思い出させるトリガーみたいなものに触れた時、急に溢れ出してくる。そうして少し感傷的になって、でもそんな風に感傷的になる時間が私は嫌いじゃなくて、うすまっていくうちに、何だか美化された過去を懐かしんでいると、また前に進もうと思えたりする。

前回のブログにも書いたけれど、そんなトリガーを、自分の中にたくさん持っていたくて。忘れてしまうからこそ、消えてしまわないように、その担保として。音楽や、写真や、映像や、言葉や。たくさん、たくさん。

***

1年間楽しんだ真田丸も終わった。最終回、泣いた。直接的な死を見せられなかった幸村よりも、内記や作兵衛の死に涙したなあ。あとは三十郎。さなロスだ〜と終わった後も一人しばらく泣いてた。これがロスってやつかと。でも今は少しずつ思い出すことも減ってきて、でも、自分の中の、日本史を知りたいという火を絶やしたくなくて、戦国時代のことをもっと知りたくて、huluで天地人も見始めたりしているよ。

3ヶ月間楽しんだ逃げ恥も終わった。最終回の日は夫が帰省していて見られず、それからしばらく忙しくてずっと見られなくてさっきやっと見たけれど、その程度だ。最終回をしばらく見られなければ見られないで、見ないでもきっと大丈夫だったくらいの。見たら見たで、楽しかったなあ、最終回のガッキーはちょっと苛立った場面もあり、かわいくなさみたいなものがでてきていたけど、これがリアルだよなあって思ったり。そんな夢みたいな存在いないよなって。

そして昨日は、私が物心ついた時からテレビの中にずっと当たり前に存在していたSMAPが終わった。これから娘が生きていく世界は、SMAPのいない世界なんだな。そんなことにびっくり。とは言え、解散が決まってからも、スマスマを見たり別にしていなかったし、今年1年、ほとんどSMAPが存在していなかった日々を、私は当たり前に生きていた。昨日のスマスマ最終回、ビデオに録ろうと思っていたのに、すっかり忘れていて、始まる時間も忘れていて(風邪ひいて寝込んでたし…)、森くんがいなくなった後のセクションから何とか見られた。そこで録画ボタンも押したけど、なんか操作間違ってて、20時くらいまではNHKの、なんか刀の意匠について、みたいな、堅苦しくって、ほんっと心の底から!今はまじでどーでもいい!番組を録っていて、ほんと私マジばか死んじまえと思ったけれど、まあ五人旅と27時間のライブと最後の世界にひとつだけの花くらいは録れた。そう、あの、最後のステージ。お辞儀して、幕が下りてゆく演出、こんなの、悲しすぎない?こんな最後、寂しすぎるよ!って、涙がとまらなかった。その後の、幕が下りた後の姿、中居くんの涙を見て、少しは心慰められたけれど。身体が何よりも雄弁なこともある、なんて、なんでSMAPからそんなことを教わらなくちゃいけないんだろう。

スマスマを見なければべつに思い出さなくて、こうして最終回で、目の前にSMAPの生き生きとした姿を見せつけられると、ああ、失いたくない、失うのが惜しいと、私はまた思っている。都合よく。私のいつもの思考パターンで。

きっとすぐに忘れてしまうけど、しばらくは忘れたくないし、また時々思い出して感傷的になりたいから、最終回はばっちり録画しておきたかったのになあ。(ちなみにいいとも最終回は録画してある、真田丸も途中から録画残してる。)アルバム、買うかなあ。


母体の産後健診で、娘を親に預けて外出。終わった後、久しぶりにひとり、カフェでお昼を食べている。

平日の昼間のカフェ、というか喫茶に、たまに定年後と思しきおじさんのふたり連れとかがいる。がやがやと、結構楽しげに喋りまくっていることが多い。こういうおじさん達はきっと、お酒をあまり飲まないんだろうな、とぼんやり思う。

そういえばわりと仲が良かった大学のサークルの後輩の男の子はお酒がほとんど飲めず、たまに何人かで遊ぶとがっつりご飯→カフェで延々とお喋り、というのが定番だった。お酒を飲まなくて、カフェが好きな男性は、きっとお喋りが好きなんだ。と勝手に結論。その後輩の結婚式の二次会には、つわり中で行けなかった。もうきっと、以前みたいに遊ぶことはないんじゃないかと思う。お祝いを渡したいけど、次に会うのは一体、いつになることやら。

妊娠して産婦人科に通った日々も、産後の入院生活も、授乳室の、みんなが胸をあらわに授乳しているあの独特の雰囲気も、先日初めて行った母乳外来も。ああなんて、女だけの世界だ。そして、男性とはきっと、分かちあえない。体がこんなにも伸び縮みするなんて、思わなかった。妊娠中はゆっくりと、だったけど、産後のそれは急速だった。お腹がしぼんでゆくと思ったら、胸がぱんぱんになった。そしてそれは痛みや出血を伴うものだった。そんなの、わかれない。当たり前だ。

もちろん、想像することはできる。思いやって、優しくしあうことはできる。それだけで十分だ。ただ、男と女は違う、という当たり前の事実を改めて実感している。

授乳中など暇なので、録画したドラマをよく見ている。真田丸と、朝ドラと、逃げ恥と、織田裕二のやつ。星野源も、ディーン藤岡も、良さがちっともわからない、とか思っていたのに、まんまと好きになっている。ちくしょう。星野源の「恋」の歌詞をよく読むと、何だかじんわり沁みてくる。

今のこの時期を、気持ちを、体に刻みつける。ドラマの映像や、主題歌や、そういうものに、何年か後たまたま触れた時、きっと今のこの記憶がありありと蘇ってくるんだろうなと思う。そういうイメージを、体の中に、たくさん持っていたいんだ。だから今面白いドラマがやっていて、よかった。

「ぶたさんみたいなピンク」


赤ちゃんには、変に凝っていない、赤ちゃんぽい色の服がよく似合う。産まれた子は女の子なので、ついついこういううすいピンクの服や小物ばかりを集めてしまう。昔大学のサークルの女の先輩が、こういうピンクの事を「ぶたさんみたいなピンク」って表現してて、なんかかわいいなあと思ったことを思い出す。

赤ちゃんのいる生活が始まった。私自身は何にも変わってないよ。でも、抱っこして、授乳して、オムツ替えて、沐浴させて、そんなことしてる私を誰かが見たら、もうすっかりお母さんしてるみたいに見えるんだろうか。

娘は予定日の2週間前に産まれたにもかかわらず3000gちょっとあって、髪の毛もふさふさだった。当たり前だけど、小さな指先1本1本に、きちんと爪も生えていて、こんなちゃんと人間の形をした赤ちゃんが、自分のお腹の中に入っていたなんて、不思議で。

今もまだ、不思議。妊娠してからこれまでに色んな不安があったけれども、こうして母子ともに無事で、産まれてきてくれたこと。どっしりとよく眠り、お腹をさわれば温かく。週を追うごとに食欲が増し、泣き声も大きくなり、私の肉体疲労は蓄積してゆく一方だけど、でも、寝顔を眺めていると、こんなにも幸せなこと。