死に向かってゆく

 

 大げさなタイトルだけど、ドラマの話。大河ドラマの「真田丸」が面白くて、三谷幸喜つながりで興味を持って、10年以上前の「新撰組!」のDVDも見始めている。

 私は文系なんだけど、大学受験では世界史選択だった。日本史も学校の授業で一応習ったけど、先生が面白くなかったし、全然興味がわかなくて、テスト前しか勉強しなかったので今ではすっかり忘れた。

 私は自分の無知を恥じているので、機会があったら日本史を勉強し直したい…という気持ちはずっとあって、でもまあ気持ちだけでめんどうくさくて行動にうつしていなかった。だから今、ドラマを通して日本史に興味が湧いて、wikipediaで調べたりなんかしている自分がちょっと嬉しかったりする。(でも所詮wikiる程度。)

 で、タイトルの話だけど、大河ドラマは歴史の話だから、結末がはっきりしていて、それに向かってゆく過程を描くものなんだよね。今更ながら。

 で、「真田丸」も、「新撰組」も、ある意味「歴史の中で敗者として散ってゆく」人たちが主人公なんだよね。そこで咲かせた一花が美しかった人たち。(とか、まだドラマを見ている途中でよく知らないくせに、かっこつけた比喩を使う。)

 だから、ドラマを見ながら、この人たちはやがて敗れて、死に向かってゆくのだと思うと、いつも悲しくなってしまう。そこは変えようがないのだから、過程を存分に楽しめばいいのに。それに、散り際の美しさをどのように描くか、それはドラマの最後にして最大の見せ場なんだから、楽しみに待っていればいいのに。でも悲しくて、そんなところ見たくない!と思って、辛くなる。一話分楽しく見終えた後も、いつも考えがそのことに帰結してしまい、無駄に落ち込んでしまう。嗚呼なんてエネルギーの無駄遣い。

 特に新撰組とか、近藤勇、最後打ち首だし。いやだよー。山南敬助、今見てるあたりではみんなで和気藹々としてるけど、結局新撰組脱走して、切腹しちゃうみたいだし。悲しいよー。

 つまりそれほどに登場人物たちが魅力的で、すっかり好きになっちゃってるってことなんだよね。だから三谷幸喜すごいねーうまいねーって、結局結論はそこに至ってしまうのだけど。

 まあ、よく考えたら私たちも、自分の人生っていう物語を今生きていて、それは死という結末にむかっているのだった。その結末は変えようがないけれど、その過程を、どう生きるか。どういう物語を描くか。っていうことなわけで、私だって自分の人生っていう物語の主人公であり脚本家でもあるわけで、まあ、三谷幸喜ばりにいい脚本を描けるようがんばるよ。っていう、壮大な結び。

 つわりが辛くなってきたよー。