りんごの香せり


 会社で、なぜかりんごの箱買いの斡旋みたいなことをしてるパートさんがいて、その人はしらすの斡旋とかもしていて、なんか、商魂たくましいというか、自由だな、と思う。今日、仕事中に、「りんごの販売らしいです」とか言って、みんなよくわかっていない感じでお知らせの紙が回覧されてきて、えええ、となった。ちなみに、しらすは「おいしい」と結構評判なので、こないだ注文してみた。朝採れのしらす。大きくて、新鮮で、めっちゃおいしかった。大根おろしにのっけて、しょうゆをかけて、もりもりと食べた。

 で、りんごは、5kgとか会社に届いても、電車通勤なので、持って帰るのが難しい。車通勤の人ならいいけども。なんて隣の席の人と話してたら、「でも、りんごをえっほえっほかついで歩いてる人がいたら、ちょっとかわいいよね。」と言われて、確かに、そんな光景、ほっこりするなあと思った。ふと、

「りんごの香せり冬がまた来る」

というフレーズを思い出して、でもそれは勘違いで、ほんとうは、

街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る

という、国語の教科書に載っていた短歌なのだった。今調べたら、木下利玄という人の歌だった。私はわりと、秋になって、青いみかんが売りだされ始めると、いつもこの歌を思い出す。

 で、りんごじゃなくてみかんだった。なんでそんな勘違いをしたのかというと、たぶん、

君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとく降れ

という短歌を最近思い出していたから、それと混じったのだと思う。北原白秋の歌で、これも教科書に載っていた気がする。先日、「短歌の目」に参加して短歌を考えている時に、ふいに思い出したのだ。こんな短歌が作れたら、こんな発想が自分のなかから生まれたら、なんてすてきなことだろう。

 私は国語が好きで、国語の教科書に載っている詩や短歌が、好きだった。今でも色々と諳んじられる。そのほかに、よく思い出すのは、

柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

という与謝野晶子の短歌で、なんて迫力の、なんてみずみずしい歌なんだ、と、初めて見た時は衝撃を受けた。国語の先生が結構情熱的な人で、その先生が、「寂しくないの!?」と、エモーショナルに口語訳をしていた声のトーンまで、鮮やかに思い出すことができる。与謝野晶子は、ほかにも、

山の動く日来(きた)る。
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。

という詩(平塚雷鳥の、「青鞜」の創刊号に掲載されたもの。これはたぶん社会科の資料集的なものにでていた。一部抜粋。)を初めて読んだ時にも、結構、衝撃を受けた。

 でも、今、上に引用した与謝野晶子の短歌をネットで検索してみると、なんかエッチな感じのことばかり出てくるので悲しい。そういえば、当時、渡辺淳一の「君も雛罌粟(こくりこ)われも雛罌粟(こくりこ)」という、晶子と夫の鉄幹のことを書いた本が売れていて、母が持っていたのを、私はこっそりと読んだ。確かに、結構エッチだった。だからそんな検索結果ばかりが出てくるのもしょうがないのかもしれない。北原白秋の短歌を検索してみても、なんか、姦通罪、みたいなことが出てくる。才能あふれる人たちは、そっち方面が、なんてゆうか、色々あるのね。