目の前にすると惜しくなる


会社を辞める時も、住み慣れた場所を引っ越す時も、家族の構成が変わって、生活が大きく変わる時も。

その時がそれなりに幸せだと、今の目の前にある人を、ものを、環境を、失うのが惜しくなって、寂しくてしょうがなくなってしまう。

でも大抵の時は大丈夫で、新しい暮らしもきちんとそれなりに幸せであれば、以前のことはすぐに忘れてしまう。忘れてしまうんだ。

いくつかの経験を経てそのことがわかってきて、そんな自分のことを薄情だとも思うけれど、それでも変化の前にはいつだって心乱れてしまうから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。大丈夫、すぐに忘れてしまうから。

忘れてしまうと言ったって、消えてしまうわけではなくて、うすまって、心の奥の方に沈んでいくだけだ。たまにその記憶を思い出させるトリガーみたいなものに触れた時、急に溢れ出してくる。そうして少し感傷的になって、でもそんな風に感傷的になる時間が私は嫌いじゃなくて、うすまっていくうちに、何だか美化された過去を懐かしんでいると、また前に進もうと思えたりする。

前回のブログにも書いたけれど、そんなトリガーを、自分の中にたくさん持っていたくて。忘れてしまうからこそ、消えてしまわないように、その担保として。音楽や、写真や、映像や、言葉や。たくさん、たくさん。

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1年間楽しんだ真田丸も終わった。最終回、泣いた。直接的な死を見せられなかった幸村よりも、内記や作兵衛の死に涙したなあ。あとは三十郎。さなロスだ〜と終わった後も一人しばらく泣いてた。これがロスってやつかと。でも今は少しずつ思い出すことも減ってきて、でも、自分の中の、日本史を知りたいという火を絶やしたくなくて、戦国時代のことをもっと知りたくて、huluで天地人も見始めたりしているよ。

3ヶ月間楽しんだ逃げ恥も終わった。最終回の日は夫が帰省していて見られず、それからしばらく忙しくてずっと見られなくてさっきやっと見たけれど、その程度だ。最終回をしばらく見られなければ見られないで、見ないでもきっと大丈夫だったくらいの。見たら見たで、楽しかったなあ、最終回のガッキーはちょっと苛立った場面もあり、かわいくなさみたいなものがでてきていたけど、これがリアルだよなあって思ったり。そんな夢みたいな存在いないよなって。

そして昨日は、私が物心ついた時からテレビの中にずっと当たり前に存在していたSMAPが終わった。これから娘が生きていく世界は、SMAPのいない世界なんだな。そんなことにびっくり。とは言え、解散が決まってからも、スマスマを見たり別にしていなかったし、今年1年、ほとんどSMAPが存在していなかった日々を、私は当たり前に生きていた。昨日のスマスマ最終回、ビデオに録ろうと思っていたのに、すっかり忘れていて、始まる時間も忘れていて(風邪ひいて寝込んでたし…)、森くんがいなくなった後のセクションから何とか見られた。そこで録画ボタンも押したけど、なんか操作間違ってて、20時くらいまではNHKの、なんか刀の意匠について、みたいな、堅苦しくって、ほんっと心の底から!今はまじでどーでもいい!番組を録っていて、ほんと私マジばか死んじまえと思ったけれど、まあ五人旅と27時間のライブと最後の世界にひとつだけの花くらいは録れた。そう、あの、最後のステージ。お辞儀して、幕が下りてゆく演出、こんなの、悲しすぎない?こんな最後、寂しすぎるよ!って、涙がとまらなかった。その後の、幕が下りた後の姿、中居くんの涙を見て、少しは心慰められたけれど。身体が何よりも雄弁なこともある、なんて、なんでSMAPからそんなことを教わらなくちゃいけないんだろう。

スマスマを見なければべつに思い出さなくて、こうして最終回で、目の前にSMAPの生き生きとした姿を見せつけられると、ああ、失いたくない、失うのが惜しいと、私はまた思っている。都合よく。私のいつもの思考パターンで。

きっとすぐに忘れてしまうけど、しばらくは忘れたくないし、また時々思い出して感傷的になりたいから、最終回はばっちり録画しておきたかったのになあ。(ちなみにいいとも最終回は録画してある、真田丸も途中から録画残してる。)アルバム、買うかなあ。