頭の中ですらすらと


何らかの思いが去来する時、意識する前に、もうそれをすらすらと頭の中で文章化していることがある。必ずしもそれをブログで発表しようと思っているわけではないのに、きちんと作文のような体裁を整えている。

以前読んだ角田光代さんのエッセイに、少し近いことが書いてあった。角田さんは中学生の頃作文が得意で、いつも学校で発行する文集に掲載されるほどで、それが誇りだった。もっと褒められたくて、日ごろからいつも作文のネタを考えていた。実父が病気で入院し、亡くなった時も、頭の中でずっと作文を考えていた。それはその時の正直な感情の発露というよりも、どちらかというと人を感動させるための文章を考えていたのだ。実際に作文は文集に掲載されたけれど、角田さんは父の死をしっかりと自分のものとして悲しむことができなかった。みたいな内容だったと思う。

(タイトルも憶えていないくらいうろ憶えなので、詳細は違っているかもしれません。検索したら、「何も持たずに存在するということ」という本の中に収録されているエッセイだと思われます。間違っていたらすみません。)

私は別に作文がものすごく得意なわけではないし(書くことは好きだけど)、ほめられるために文章を書いているわけではないけれど。でも、ナマの思いを、きれいな文章にまとめようとすると、何かがこぼれ落ちてしまうということは確かにあると思う。どこか他人事のようになってしまう。でもね、なるべくなら、この思いの熱量をそのままに、この言葉の、文章の中に、閉じ込めておきたいと思うんだなあ。いつも。

思いは思いのままだとただの衝動として消えてなくなってしまう気がして、だからきちんと言葉にして、文章にして、残しておきたいのだ。忘れたくないから。私の場合、いちばんのモチベーションはそこかなあと思う。

(ちなみに、角田さんのエッセイはたぶん、不純な動機で父の死を作文にした、それに対する自己嫌悪みたいなものが主題だった気がするので、話はちとずれているかもしれないのですが。)

今思ったのだけど、文章化することで他人事にすることができるなら、敢えてそれを利用するというのもありかもね。すごいカッとなった時や、悲しくなった時に、その場で、「私はその時、頭にカッと血がのぼるのを感じた。」みたいに、頭の中できれいな文章にしようとするの。そうしたら、その衝動を目の前の人にぶつけようとすることなく、じょうずに他人事みたいにやり過ごすことができるようになるかもしれない。今度試してみよーっと。