資格なんていらない


なんとなく心が沈んだ日が続いていた。夫が疲れていて、私も疲れていた。

そんな時に、夫の同期の新婚さん夫婦と飲む機会があった。夫と同期の方(Aさんとしよう)は今30代の半ばだけど、Aさんの奥さんは、Aさんのひとまわり年下だった。20代前半。久しぶりにそんな若い女の子と話をしたよ。

Aさんは奥さんを目に入れても痛くないくらい愛していることがよくよく伝わってきたし、奥さんもそんな風に愛される資格を十分に持っているというか、私も彼女を前にしてああ、なんて可愛いんだろう!と思った。愛さずにはいられない感じ。

見た目の可愛らしさ(髪もつやつや、肌もぴかぴか!)ももちろんあるのだけど、なんだろう、彼女は色んな意味で素朴で、ありのままだった。変に気を遣ったりせず、自分を飾ろうともせず、お酒をぐびぐびと飲んだ。私も夫もつられて、久しぶりに飲み過ぎた。

でも、なんて可愛いんだろう!と思いながら、同時に、私は彼女のそのありのままの様子に、嫉妬していた。とても恥ずかしいのだけど。

自分の嫉妬については、夫に言われて気付いた。私は帰宅してから、夫に、「奥さんのこと可愛いって思ったでしょ。うらやましいって思ったでしょ。素直に認めろ!」と言ってしつこく絡んだ(面倒くさいヨー)。夫は、もにょもにょと肯定とも否定ともつかないことを言っていたけど、酔っ払っていたので、すぐにいびきをかいて寝てしまった。そして翌朝、「昨日の夜、嫉妬してたでしょ」と言われた。

最初は、「し、嫉妬じゃないやい!」と動揺していたけど、よくよく考えたら、嫉妬で間違いござんせん。ハァ。

私の心の中の意地悪ババが言う。「彼女はまだ社会に揉まれていないのだ。」そして自分自身は、「社会に揉まれた。」という感覚を強く持っていたりするのだった。結構、社会に、こてんくしゃんに揉まれて、大人になった感ある。気を遣って、自分をおさえて、社会に順応しようと、頑張ってきた。社会人をしばらくやっていると、多かれ少なかれ、みんなそういう感覚はあるんじゃないかな。

社会に揉まれて、大人になって、その方が、生きることは楽になったと思う。でも、そのことは、悪くはないけど、良くもなかったと思っている。その過程で、悩んだり、傷ついたり、ストレスをためたり、そういう諸々は、辛い。そこから学んだこと、得たものはたくさんある。でも、それでも、そういう辛いことって、人生の中ではできるだけ少ない方が、幸せなんじゃないかな?とも思うのだ。人間としての深みが出ないとか、あるかもしれないけど、本人が幸せなら、それでいいじゃないかって。

だいぶ前に見た、「ブラックスワン」という映画が、私はあまり好きじゃなくて、ヒロインのナタリー・ポートマンは、初めは純粋で汚れを知らないような少女だった。でも、表現者としての深みにかけると言われて、そういう人生の酸いや、心の澱みのようなものを、自ら求めるようになり、狂ってゆく。(ストーリーはうろおぼえだし、自分の解釈なので、間違っていたらすみません。)

私は、人生の酸いも、心の澱みも、知らなければそれでいいんじゃないかって。表現者とか職業とかのことはおいておいて、初めのナタリー・ポートマンで、十分幸せで、そのままで良かったんじゃないかって、思って。

た、はずなのにね。

それを体現した(ように見える。実際にはそうではないかもしれない)、自分が失ってしまった(ように思える)ものを持っている女の子を前にして、私は嫉妬してしまった。反省。

疲れてるからかな。未来が見えなくて不安だからかな。原因は自分のなかにあり、それを見極めて、少しずつ取り除いていきたい。


初めに私は、彼女のことを、「愛される資格を十分に持っている」と書いた。その感じ方がそもそも、良くない。赴任した夫についていき、実家と離れた場所に住み、主婦をやっている。その立場は似ているけれど、「愛される資格のある」彼女に対して、私には、「資格」がない。ように思えた。その「資格」の中には、私が失ってしまった(ように思える)諸々が、含まれているように、思えた。

「愛される資格」ってなんだよ。
愛されること、愛することは、個人と個人の人間関係の積み重ねの結果であって、資格なんていらない。