高村光太郎のこと


くっきりと秋が来た、と思って、そういえば確かそんな詩があった、と思い出した。こういう時にGoogle先生は便利だ。「くっきりと秋 詩」で検索してもうまく出てこず、もしかして季節が違ったかしらと、「くっきりと春」「くっきりと夏」と調べて、ようやく「くっきりと冬」でヒットした。しかも「くっきりと」じゃなくて「きっぱりと」の間違いだった。高村光太郎の「冬が来た」という詩だった。それで高村光太郎のことを色々と思い出した。


私の通っていた中学は私立のクソ真面目な女子校で、修学旅行の行き先も全く浮ついておらず、東北だった。私たちはりんご狩りをしたり、十和田湖に行ったりした。それ以外に何をしたのかよく覚えていない。

修学旅行に行く前に行き先にまつわる色々なことを調べさせられたりするけれど、とりわけ私が興味をひかれたのは高村光太郎のことだった。代表作「レモン哀歌」は教科書にものっていた。光太郎の愛が重すぎて智恵子(妻)を狂わせた、みたいな話も聞いたけど、なんだろう、そういうストーリー性はあまり関係なく、私は「レモン哀歌」に使われている言葉のひとつひとつが好きだと思った。かなしく白いあかるい死の床で、とか、がりりと噛んだ、とか、トパアズ色の香気、とか。今でも何となく諳んじられるくらい。

高村光太郎は詩人だけど彫刻家でもあり、彼が作った「乙女の像」が十和田湖畔にある。修学旅行で実際にその像と対峙した時、私は、高村光太郎が確かに実在の人物で、生きていたんだという手触りのようなものを感じて、ひとりで感動していた。


それからすこし時間が経って、大学2年の時、私は所属していた軽音楽サークルのイベントでギャルバンを組むことになった。私たちは曲を演奏すること以上に、いわゆる「ギャルバン」のイメージを具現化することにいそしんだ。The 5.6.7.8'sみたいな雰囲気に憧れて、謎服がたくさん売っている古着屋で衣装を物色したり、100均で真っ赤な口紅やつけまつげやラメを買ったりしてキャッキャしていた。

色々買い込んだ後、ボーカルを頼んだ先輩が住んでいたアパートで、バンドの作戦会議をした。何となく本棚をみたら、「智恵子抄」の文庫本があった。あ、私これ好きなんですよー、レモン哀歌、なんてペラペラめくっていたら、先輩がふいに、SE(バンドが出る前に流す音楽)で詩の朗読の録音を流したら面白くない?と言い出した。突拍子のない謎アイデアだけど、ノリでイイねイイねーとなって、その朗読は私が担当することになった。

私は全く美声ではなく、録音した自分の声を聞くとつくづく間抜けな声だなーと思うけど、その時はそれでよかった。むしろそれがよかった。私は自分が好きだった詩を、何気なく朗読する機会が訪れたということを、何だか嬉しく感じていた。

イベント当日、ライブハウスで流れたSEを聞いていた人なんて、たぶんほとんどいなかった。「レモン哀歌だったね」なんて言ってくる人ももちろんいなかった。でもその日のライブはとても楽しかった。アホみたいなメイクと衣装で、ばかみたいに簡単な曲ばかりをやった。私はギターを1年の時に始めて、ずっとどへたくそでまともな演奏ができていなかったけど、その日はほとんど間違えなかったし、エフェクターの設定もばっちり決まって、いい音が出て、めずらしく人からほめられたのだった。