沈黙と共存したい


文章を書く練習をしようと思って、いわゆる「ブログの書き方」みたいなものにのっとってブログを書いてみようとした。
具体的には、「画像を使う」「見出しをつける」「一文を短くしてわかりやすく」など。
そうしたらものすごく時間がかかって辛い。
まだ完成していない(完成した暁には公開しますので、あ、これだな、と思ってください…)。

そういう書き方をした方が楽なのかなと思っていたけどとんでもない。
ただだらだらと適当に書くのが最も楽に決まっている。
当たり前である。


散らかっているのが面白いという気持ちもあるけど、

anohika.hatenablog.com

やっぱり色々なブログを拝見していて、文体や内容や雰囲気に一貫性があると良いな、素敵だな、という気持ちがまたむくむくとわいてきた5月の初め。
(もう、5月!早い。)

なんでかというと一貫性を出すのだってある意味演出というか、どこかで自分をおさえて不要なものを削って選んでアウトプットするみたいなことをしているのであって、そういう作業って結構大変だし、すごいなあと思ったからである。

ち、違うのかな…?
みなさん天然でそうゆうのが確立されているのかな?
ますますすごい。


私は私生活において結構だだもれ女子で(ごめんなさい女子じゃないです大人の女性ですって書くとなんか素敵な感じになってしまう、普通のつまらない女です)、思ったことがすぐに顔や態度に出るし嘘もばれるし(ばれる恐れがあるのであまりつかないようにしている)、リアクションもでかすぎてちびまることかサザエさんぽいって言われるような感じで、全然おさえがきいていない。

そういう風にしかできなくてそうなのだけど、大人は色々なことを我慢しなくちゃいけないものであって、そういう風でいるのはある面では楽というか甘えなんだろうと思う。
(でもそういう性質のためにうまくできなかったことや損したことはこれまでにたくさんあり、できれば直したいと思っている。)

あとはそういうのって全く色気がないと思う。
色気というのは一歩引いたところに宿るものである。
そう、壇蜜のように…。


沈黙を使いこなせるようになりたいとはずっと思っている。
使う?というか、沈黙と共存したい。

私は誰かと一緒にいる時に沈黙が訪れると、それを埋めよう埋めようと思ってすごく頑張って話してしまう。
でもそういう時って話すことがないから沈黙が訪れているわけで、無理やり話すことを見つけ出そうとしてもそれは中身のない空虚なものであって、話しながら自分の空虚さがどんどん浮き彫りになり、そういう時私はほんとうに疲れきって悲しくなって自分が嫌いになってしまいそうになる。

相手に気を遣って、という気持ちももちろんあるんだけど、どちらかというとただそれは自分が沈黙に耐えられないから話しているのであって、自分のために話しているのだから、空虚で当然だ。


そういう時に、自分をおさえる。
一歩引いてみる。
そんな風にして、沈黙と共存する。

サウイフモノニワタシハナリタイ。


ブログの書き方の話から始まり、沈黙についての話で終わった。
自分でも思わぬ方向に話が展開した。
だらだらと適当に書くのも、楽しいんだけど。