栄光の男にゃなれない


音楽は自由だと思ってた。

ただ直感的にそう思っていただけで、根拠は特にないのだけど、それはきっと私の根底に自分の音楽の原体験としてパンクがあるからで、パンクはそもそも反体制みたいなところから出てきた音楽だから、そういう性質を有しているんだろう。

J-POPとかはべつに違うのかもしれない。


それでも比較的、サザンは自由に見えていた。

私ははやりの感動的すぎる歌とかがあんまり得意じゃなくて、ピンポイントで1曲ならまだしも、アルバム全てがそんな曲で埋め尽くされていたりするともう無理お腹いっぱい勘弁してください、ってなってしまう。

でも、サザンは遊びがあるというか、深刻すぎないところがよかった。

あとはやっぱり桑田佳祐さんは詩人というか、言葉の使い方が絶妙だったり言葉遊びが面白かったりするので。


でも、去年の紅白の顛末があった。

実際にテレビでパフォーマンスを見て、いいじゃんいいじゃん、って思っただけに、あのお詫びはなんだか、それにケチがついちゃったような…

ちょっと残念な気持ちになったけど、まあ、そこまで深くそのことについて考えたりはしなかった。


先週、サザンファンの夫が新しいアルバム「葡萄」を買ってきたので、ここ最近はずっと聴いている。

1曲目の、CMにも使われていた「アロエ」という曲がある。


「アロエ」-サザンオールスターズ - YouTube


「だから勝負、勝負、勝負出ろ!!
 勝負に行こう!!
 カラダ勝負、勝負、勝負出ろ!!
 止まない雨はないさ」


初めて聴いた時、とてもいい曲なのに、どうしてもあの顛末が頭をよぎって、こう思ってしまった。

「勝負してないじゃん…。」

特に意識してなかったつもりでも、その出来事はしっかりと脳裏にインプットされていたようで。

サザンだって、自由じゃないじゃん。

そんな風に急に思い始めたら、音楽がなんとなく耳を素通りして、どうにもアルバムを素直に聴けなくなってしまって、なんだか悲しかった。


でも週末、電車の中で、iPhoneに入れたサザンのアルバムを聴いていて。

iPhoneにつないだイヤホンから、耳に、体に、直接音楽が入ってきて、そうしたらなんだか素直に、「ああいい曲だなあ。いいアルバムだなあ。」と思うことができたのだった。


常々思っているのだけど、スピーカーから流れてくる音楽を聴くのと、イヤホンで直接音楽を聴くのとは、音楽体験の質のようなものがずいぶん異なる。
(ライブで直接聴くのも、また違う。)

私はスピーカーで流す音楽と、イヤホンで聴く音楽は、結構ジャンルが違ったりする。

スピーカーで流す音楽、流れてくる音楽というのは、バックミュージックみたいな意味合いがつよいから、その空間に調和する、じゃまにならない音楽を選ぶことが多い。

あくまでメインはその時その空間で家事したりネットしたりなんやかんやしている自分であって、音楽はそれを飾り付けるもの、というか。

一方、イヤホンで音楽を聴くのはもっと、主体的な行為という感じがする。

だからよりメッセージ性のつよい音楽を聴くことが多い。

音楽と自分との間に、空間がないというか、余分な情報が介在しないので、より純粋に音楽を聴くことができて、なんというか、自分の体に沁みわたるのだ。


サザンのアルバムも、作られた作品とは全く関係のない部分で起こったちょっとした出来事、余分な情報を切り離して聴けば、素直に良くて、一度そういう風に聴くことができたらもう、イヤホンからでもスピーカーからでも、それは良いアルバムに聴こえた。

私はサザンのことは全然詳しくなくて、オリジナルアルバムはちゃんと聴いたことがないしヒット曲しか知らないので、レビューってほどのことはできない。
(なのでこんな風にえらそうに書いてしまってファンの方が不快に思ったら、ごめんなさい。)

ただ、ふと、この歌を聴いていて涙が出た。


サザンオールスターズ - 栄光の男 - YouTube



「『永遠に不滅』と
 彼は叫んだけど
 信じたモノはみんな
 メッキが剥がれてく」



「生まれ変わってみても
 栄光の男にゃなれない
 鬼が行き交う世間
 渡り切るのが精一杯」



こんな風に歌える人だからこそ、あのお詫びを出すという決断をしたのかもしれない。

そんなことを思った。


自由じゃないから、弱いから、精一杯、歌ったりもするんだ。


あとはサザンを聴く度に思うのは、原由子さんあってのサザンだなーって。

キーボードラインとか、キュートなコーラスが最高だなーっていつも思います。


***


<追記>

2ヶ月後、初めてサザンのライブに行ったので感想を書きました。anohika.hatenablog.com