友達に会いたい


 友達に会いたい。って、ずっと思ってた。最近。

 つわりで体調は常に低空飛行で、乗り物に乗ると吐き気がこみ上げるので、誰かを誘ってまで出かける勇気は出ないのだ。でも会いたい、会って色々話したい。もしも人から誘われれば、きっと吐き気を押して、がんばって出かけられる。

 去年は4月の初め頃に帰省する用事があって、ちょうど桜の時期に重なったから、友達数人に声をかけて、お花見に行ったのだ。桜の下で、ビールを飲みながら、デパ地下で買い込んだ美味しいものを食べて、楽しかったな。でもやっぱりすこし寒かったから、次回のお花見はカセットコンロを持ち込んで、外鍋したいね。なんて話してたんだよね。私は肉係、○○は野菜係、△△は〆のうどん係、ってな感じで、それぞれ材料を持ち寄って。そんなの、絶対おいしいし、絶対楽しい。そんな話が出てたから、今年もみんなでお花見できるんじゃないかって、ちょっと期待してたのだけど、社会人の通例で、口先だけで終わってしまった。元気だったら、今年もまたみんなに声をかけたかったけど、今は受身でしかいられないのだ。

 今年は夫とふたりでお花見。それはそれでもちろん、楽しいんだけどね。近所に、最高の桜スポットを見つけたのだ。川沿いに、ずーっと桜並木。川原には菜の花も植えられていて、黄色とピンクのコントラストがきれい。すてきな風景を見ると、心がすーっとする。

 夫は優しい。つわりで冷蔵庫と台所の匂いがすっかりだめになってしまったのもあり、この1ヶ月私はほとんど料理をしていない。夫が買ってきたり、作ってくれたり。とてもありがたいのだけど、夫は料理のセンスがあまりなく、だけど私の栄養を考えて、工夫して色々と作ってくれたりする。でもちょっとイマイチな感じで、食べられなかったりもする。そんな自分がふがいなく、申し訳なく、泣ける。思うように体が動かず、イライラしてしまう日もある。でも夫はいつも優しく話を聞いてくれる。ありがたい。

 妊娠のことは夫と親にしか話していなくて、近頃は小さな小さな世界で、つわりの気持ち悪さをこらえながら生きてた。仕事は変わらずしていて、通勤で電車に乗るのはいつも辛い。でも仕事をして、無理にでも外の世界に出たほうが、すこしはましなのだった。それでも、それだけじゃ足りなくて、友達に会いたかった。何にも考えず、何の気も遣わずに、どうでもいいことを話して、笑ったりしたかった。

 昨日の夜急に、友達から電話がかかってきた。ちょっとした用事で、来月会うことになった。

 電話がかかってくる直前まで、気持ち悪さに苦しんでいたのだけど、友達と話していたら、それはすーっと遠ざかっていった。(しばらくしたらまた戻ってきたけど。)楽しみな予定ができたら、心に風穴があいたみたいに、すこし前向きな気持ちも湧いてきたんだった。

死に向かってゆく

 

 大げさなタイトルだけど、ドラマの話。大河ドラマの「真田丸」が面白くて、三谷幸喜つながりで興味を持って、10年以上前の「新撰組!」のDVDも見始めている。

 私は文系なんだけど、大学受験では世界史選択だった。日本史も学校の授業で一応習ったけど、先生が面白くなかったし、全然興味がわかなくて、テスト前しか勉強しなかったので今ではすっかり忘れた。

 私は自分の無知を恥じているので、機会があったら日本史を勉強し直したい…という気持ちはずっとあって、でもまあ気持ちだけでめんどうくさくて行動にうつしていなかった。だから今、ドラマを通して日本史に興味が湧いて、wikipediaで調べたりなんかしている自分がちょっと嬉しかったりする。(でも所詮wikiる程度。)

 で、タイトルの話だけど、大河ドラマは歴史の話だから、結末がはっきりしていて、それに向かってゆく過程を描くものなんだよね。今更ながら。

 で、「真田丸」も、「新撰組」も、ある意味「歴史の中で敗者として散ってゆく」人たちが主人公なんだよね。そこで咲かせた一花が美しかった人たち。(とか、まだドラマを見ている途中でよく知らないくせに、かっこつけた比喩を使う。)

 だから、ドラマを見ながら、この人たちはやがて敗れて、死に向かってゆくのだと思うと、いつも悲しくなってしまう。そこは変えようがないのだから、過程を存分に楽しめばいいのに。それに、散り際の美しさをどのように描くか、それはドラマの最後にして最大の見せ場なんだから、楽しみに待っていればいいのに。でも悲しくて、そんなところ見たくない!と思って、辛くなる。一話分楽しく見終えた後も、いつも考えがそのことに帰結してしまい、無駄に落ち込んでしまう。嗚呼なんてエネルギーの無駄遣い。

 特に新撰組とか、近藤勇、最後打ち首だし。いやだよー。山南敬助、今見てるあたりではみんなで和気藹々としてるけど、結局新撰組脱走して、切腹しちゃうみたいだし。悲しいよー。

 つまりそれほどに登場人物たちが魅力的で、すっかり好きになっちゃってるってことなんだよね。だから三谷幸喜すごいねーうまいねーって、結局結論はそこに至ってしまうのだけど。

 まあ、よく考えたら私たちも、自分の人生っていう物語を今生きていて、それは死という結末にむかっているのだった。その結末は変えようがないけれど、その過程を、どう生きるか。どういう物語を描くか。っていうことなわけで、私だって自分の人生っていう物語の主人公であり脚本家でもあるわけで、まあ、三谷幸喜ばりにいい脚本を描けるようがんばるよ。っていう、壮大な結び。

 つわりが辛くなってきたよー。

お守り


 今年の初詣は、実家に帰省していた時に近所の神社に行った。そこで、今年が厄年なので、厄除けのお守りを買った。以前会社に勤めていて、軽い鬱だった時に、その神社で同じように厄除けのお守りを買ったことがある。(その時は厄年でもなんでもなかったけど。)そうしたら、その年に、鬱の原因になっていた上司のいる部署を異動になった。あと現夫からプロポーズもされて、翌年会社自体を辞めることになった。私は占いは信じていない。というか、見ても5分後くらいには何が書いてあったか忘れてしまう。縁起を担いだりすることもあんまりない。でも、その神社のお守りは、「効いた」と思った。

 夫と結婚して、当時夫は海外赴任中だったので、帯同することになった。赴任先に引っ越す日、私は空港の預け入れ荷物にそのお守りをつけた。大事なお守りをよくそんなとこにつけたな、と今となっては思わないでもないけれど、私としては、目印としてキーホルダーをつけるみたいな感覚だったのだ。あとは、これからの生活の無事を祈ってみたいな気持ちももちろんあった。赴任先の国の空港について、預け荷物を受け取ったら、なんとお守りはもぎ取られたような雰囲気で、紐しか残っていなかった。ガーン。確かに袋状だし、変なものが入ってないか、あやしいもんね…。ショックだったけど、これからこの国で受けるかもしれなかった災厄を、きっとこのお守りが引き受けてくれたんだね。と私は前向きに受け止めることにした。実際その国での生活は、短かったけど、とても楽しい日々だったんだ。

 ところで、今年が厄年という認識はぼんやりとあったのだけど、去年が前厄だったということはすっかりと忘れていた私。先日、友達と話していた時に発覚して、「前厄と厄年と後厄と3年あるのに、そのうちの1年を気付かずに過ごしてたって、幸せだね」と言われた。確かに。認識してないほうが気楽で幸せっていうことはあるかも。「で、前厄でなんか悪いことあった?」…あった。不妊が発覚した。それで結構色々悩んだ1年だった。そのことは友達には言わなかったけれど、厄年侮りがたし、って心の中で思った。ちなみに、話の中で、ベッキーも今年厄年だったことが発覚。厄年KOEEEEEEE!

 でも私には厄除けのお守りがあるもんね。大丈夫だもんね。とか思っていた今日この頃だったのですが、妊娠したかもしれません、私。この1週間くらい、もしかして…?もしかして…!?ってずっと思いながら、でもあまり期待するのはよくない。そううまくはいかない。と自分の気持ちをおさえていたのだけど、検査薬で陽性が出たので、いよいよ期待が高まってきたところです。来週あたり産婦人科に行く。最近近しい人から流産したという話を立て続けに聞いたりしたので、過剰な期待や油断は禁物と思いながらも、でもやっぱり嬉しい。やっぱりお守り効いた。厄年なんかに負けない。これからがんばるよ。

閏年だから


閏年だからね。こんなこともあるよね。しょうがないよね。

3月1日は出勤だ、っていう気持ちがつよすぎてね。2月は28日で終わりっていう例年の感じに馴染みすぎててね。

今日、仕事ないのに出勤しちゃったよね。辛いよねー。恥ずかしいよねー。

それだけ。。

頭の中ですらすらと


何らかの思いが去来する時、意識する前に、もうそれをすらすらと頭の中で文章化していることがある。必ずしもそれをブログで発表しようと思っているわけではないのに、きちんと作文のような体裁を整えている。

以前読んだ角田光代さんのエッセイに、少し近いことが書いてあった。角田さんは中学生の頃作文が得意で、いつも学校で発行する文集に掲載されるほどで、それが誇りだった。もっと褒められたくて、日ごろからいつも作文のネタを考えていた。実父が病気で入院し、亡くなった時も、頭の中でずっと作文を考えていた。それはその時の正直な感情の発露というよりも、どちらかというと人を感動させるための文章を考えていたのだ。実際に作文は文集に掲載されたけれど、角田さんは父の死をしっかりと自分のものとして悲しむことができなかった。みたいな内容だったと思う。

(タイトルも憶えていないくらいうろ憶えなので、詳細は違っているかもしれません。検索したら、「何も持たずに存在するということ」という本の中に収録されているエッセイだと思われます。間違っていたらすみません。)

私は別に作文がものすごく得意なわけではないし(書くことは好きだけど)、ほめられるために文章を書いているわけではないけれど。でも、ナマの思いを、きれいな文章にまとめようとすると、何かがこぼれ落ちてしまうということは確かにあると思う。どこか他人事のようになってしまう。でもね、なるべくなら、この思いの熱量をそのままに、この言葉の、文章の中に、閉じ込めておきたいと思うんだなあ。いつも。

思いは思いのままだとただの衝動として消えてなくなってしまう気がして、だからきちんと言葉にして、文章にして、残しておきたいのだ。忘れたくないから。私の場合、いちばんのモチベーションはそこかなあと思う。

(ちなみに、角田さんのエッセイはたぶん、不純な動機で父の死を作文にした、それに対する自己嫌悪みたいなものが主題だった気がするので、話はちとずれているかもしれないのですが。)

今思ったのだけど、文章化することで他人事にすることができるなら、敢えてそれを利用するというのもありかもね。すごいカッとなった時や、悲しくなった時に、その場で、「私はその時、頭にカッと血がのぼるのを感じた。」みたいに、頭の中できれいな文章にしようとするの。そうしたら、その衝動を目の前の人にぶつけようとすることなく、じょうずに他人事みたいにやり過ごすことができるようになるかもしれない。今度試してみよーっと。